仙台駅ビル/S-PALの1階にあるベーカリーカフェ DELINA(デリーナ)仙台店のナポリタンパン(上)と、ちくわパン(下)。ちくわパン(150円)は超人気商品らしく、遅い時間では売切れ必至。
あるお仕事のお手伝いをさせて頂いた時、先生が唐突に「ぼくは、とにかく自発的にパンは食べないの。外国では食べる事もあるけどね、日本ではお米を頂く」と仰せになった事があった。「日本のパンの質が悪い、という事でしょうか」と私が言うと、「いや、そういう事じゃなくてね・・・」と続けられ、
團 伊玖磨先生の「続々パイプのけむり」
先生にとっては、パンもパスタも代用食。だから、コッペパンにスパゲティ・ナポリタンを挟んだもの(私は大好きなのだが)は、團先生にとっては
私と言えば、基本的にパンは大好きで、コッペパンにヤキソバとかスパゲティ・ナポリタンとかマカロニorポテトサラダを挟んだものは特に好きである。炭水化物をオカズにして炭水化物を食べるわけだから、栄養的には言語道断の食べ物なのだが、それでも好きなものは好きなのである。
最近ではチクワの中にツナを詰めてパンの具材にし、マヨネーズをトッピングした「チクワパン」というものも発見し、これも大いに気に入っている。ツナやマヨネーズをパン生地にトッピングするパターンはかなり前から定番化していたが、それにとうとうチクワまで加わるとは・・・・最初に試した人の発想には恐れ入る。
惣菜パンについては、代表的なものとして「カレーパン」があるだろう。今やパン業界の国民食メニューになった感があるが、あんぱんの木村屋と違って元祖説が複数あるので紹介しておこう。どれが正しいか、というよりパンにカレーを組み合わせる事を複数の日本人が考案した、というのが本当のところかも知れないが。
【元祖説1】 明治10年に東京の深川常磐町で創業された「名花堂」
【元祖説2】 東京都練馬区の「デンマークブロート」
【元祖説3】 大正5年(1916年)に東京都新宿区の新宿中村屋が迎えたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース
・・・・3店とも現役店として今も営業しており、看板メニューのひとつとして人気を保っているようだ。もちろん他にもカレーパンに力を入れているベーカリーは無数にあり、旨いカレーパンの店をいちいち紹介していたら際限がないほどだ。
私は戦後の生まれだから戦前の事は史料でしかわからない。戦前・戦時中・終戦直後の日本の食糧事情を調べた事があったけれども、食糧や調味料・燃料その他生活必需品が「配給制度」になった戦時中には、戦況が悪化するにつれて米ではなく小麦粉・どんぐりの粉なども配給されるようになり、米ヌカを黒く煎って熱湯で溶かし、人口甘味料
配給の小麦粉も、そのまま水で練って汁の具にした「すいとん」、ふくらし粉を使って自家製パンを焼いたり・・・・という事が出来る頃はまだましで、ソテツの実
そんな時代をくぐり抜けて来た戦前生まれの方々に「パン」と言っても、複雑な表情をなさる場合もあるだろう。苦労話としてはいくらでもネタをお持ちでも、いま実際にパンを食べたいかどうか・・・・これは難しい問題である。
そういえば、團先生がこんなことも仰せだった。
「ぼくたちはね、戦時中から終戦直後にかけて、とにかくお米に飢えていたんだよ。銀シャリ、というアレね。白いご飯。玄米とかじゃなくて、雑穀の混ざっていないご飯ね。渇望していたなあ。せっかくご飯を食べられる時代になったから、思いっきりご飯を食べたいんだよね。幸せな時代になったんだよね。」
團先生は、ご飯をとても美味しそうに召し上がる人だった。戦前の日本を生き抜いて来られた先達は、銀シャリに憧れながら青春時代を過ごさればならなかった。そういう時代を経てパンは代用食から主食の一角を担うようになり、今や外食産業はパン抜きでは成立出来ないほどになった。やはり日本は「平和」で「豊か」になったのだ。そうでなければ、私のように「パンは大好き」だの「讃岐うどんは四国産が最高」だの「日本蕎麦」がどうの・・・・等とは言っていられない時代が続いたのだろう。
戦前の日本を支えて来られた偉大な先人達に感謝をしつつも、今朝の食卓にトーストとサラダを並べる。確実に私の中身は欧米化しているのかも知れませんなあ。嗚呼。