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パン/麺麭/Bread/Brot/хлеб・・・・・

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パン2種.jpg


仙台駅ビル/S-PALの1階にあるベーカリーカフェ DELINA(デリーナ)仙台店のナポリタンパン(上)と、ちくわパン(下)。ちくわパン(150円)は超人気商品らしく、遅い時間では売切れ必至。




80年代、作曲家の團 伊玖磨(だん いくま 1924年/大正13年~2001年/平成13年)先生とパンについてお話しした事がある。




あるお仕事のお手伝いをさせて頂いた時、先生が唐突に「ぼくは、とにかく自発的にパンは食べないの。外国では食べる事もあるけどね、日本ではお米を頂く」と仰せになった事があった。「日本のパンの質が悪い、という事でしょうか」と私が言うと、「いや、そういう事じゃなくてね・・・」と続けられ、

「ぼく達戦争経験者にとって、お米以外のものはすべて代用食なの。パンとかうどんとかソバとかイモとかね、これは代用食で散々食べたから。だから食べるんならご飯が食べたいのね。」と仰せだった。





團 伊玖磨先生の「続々パイプのけむり」

(昭和43年/朝日新聞社刊)にも、麺麭(パン)というエッセイを残しておられる(P.171)ほどだ。今も私の手元にあるその古いエッセイ本の目次を眺めながら、冒頭のやりとりを思い出したのだ。





先生にとっては、パンもパスタも代用食。だから、コッペパンにスパゲティ・ナポリタンを挟んだもの(私は大好きなのだが)は、團先生にとっては

「代用食が代用食をくわえ込んでいる代物」であるらしい。エッセイにもそんな事が書いてあった。言われてみれば、先生がパンを召し上がっておられる姿を、少なくとも私は一度も見た事がない。





私と言えば、基本的にパンは大好きで、コッペパンにヤキソバとかスパゲティ・ナポリタンとかマカロニorポテトサラダを挟んだものは特に好きである。炭水化物をオカズにして炭水化物を食べるわけだから、栄養的には言語道断の食べ物なのだが、それでも好きなものは好きなのである。





最近ではチクワの中にツナを詰めてパンの具材にし、マヨネーズをトッピングした「チクワパン」というものも発見し、これも大いに気に入っている。ツナやマヨネーズをパン生地にトッピングするパターンはかなり前から定番化していたが、それにとうとうチクワまで加わるとは・・・・最初に試した人の発想には恐れ入る。




渋谷ロゴスキーのピロシキ.jpg


日本最古のロシア料理店・渋谷ロゴスキーの看板メニューのひとつ「ピロシキ」は、肉/野菜/カレー/玉子/あん の5種類がある。創業以来60年、日本人の味覚に合わせて作られて来た人気惣菜パン。通販で購入出来る。



ロシア名物「ピロシキ」も私の好物。具材(肉とか野菜とか)を包んだパン生地を揚げたり焼いたりした、ようするに惣菜パンなんだけれども、肉を受け付けない私は野菜ピロシキをよく食べている。お薦めは日本に於けるロシア料理の草分け「渋谷ロゴスキー」のピロシキだ。かつて私がロシア本国で食べたどのピロシキよりも美味で繊細な味である。




カレーパン1.jpg


惣菜パンについては、代表的なものとして「カレーパン」があるだろう。今やパン業界の国民食メニューになった感があるが、あんぱんの木村屋と違って元祖説が複数あるので紹介しておこう。どれが正しいか、というよりパンにカレーを組み合わせる事を複数の日本人が考案した、というのが本当のところかも知れないが。




【元祖説1】 明治10年に東京の深川常磐町で創業された「名花堂」

(現店名:カトレア/東京都江東区森下)2代目の中田豊治が1927年に実用新案登録した具材入り洋食パン。「具の入ったパンをカツレツのように揚げる」というのが主旨だった、この時点ではカレーの言葉は全く含まれていないが、具材入りパンを考案・開発していた大正12年に関東大震災が起こり、店の建て直しを急いだ2代目が「洋食の人気メニュー」であるカレーとカツレツを両方楽しめるパンを思いついたという。(5代目主人・談)



【元祖説2】 東京都練馬区の「デンマークブロート」

(現店名:デンマークベーカリー/1934年創業)の創業者がカレーサンドを発売し、さらにそれを揚げる事を思いついてカレーパンに繋がった。当初はカレーサンドのフライ版、という感じだったらしいが、人気商品になった。



【元祖説3】 大正5年(1916年)に東京都新宿区の新宿中村屋が迎えたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース

(Rash Behari Bose 1886年~1945年/新宿中村屋の相馬家の婿。同社の取締役も歴任)が純インドカレーを伝え、これにヒントを得た相馬愛蔵(そうま あいぞう 1870年~1954年/新宿中村屋創立者)によって商品化。




・・・・3店とも現役店として今も営業しており、看板メニューのひとつとして人気を保っているようだ。もちろん他にもカレーパンに力を入れているベーカリーは無数にあり、旨いカレーパンの店をいちいち紹介していたら際限がないほどだ。





私は戦後の生まれだから戦前の事は史料でしかわからない。戦前・戦時中・終戦直後の日本の食糧事情を調べた事があったけれども、食糧や調味料・燃料その他生活必需品が「配給制度」になった戦時中には、戦況が悪化するにつれて米ではなく小麦粉・どんぐりの粉なども配給されるようになり、米ヌカを黒く煎って熱湯で溶かし、人口甘味料

(サッカリンナトリウム)で味付けした「代用ココア」とか、麸(ふすま=麦のヌカの事)でパンを焼いたり、ありとあらゆる代用食が考案されたという話を読むと、何か辛くなる。





配給の小麦粉も、そのまま水で練って汁の具にした「すいとん」、ふくらし粉を使って自家製パンを焼いたり・・・・という事が出来る頃はまだましで、ソテツの実

(沖縄では水さらしして毒抜きしてから味噌用の麹を作る)の粉で作った代用カステラなるものを食べて七転八倒の腹痛を味わったり、米ヌカや麸(ふすま)に魚粉を混ぜた生地でパンを焼き、鼻をつまんで生臭さに耐えながら飲み込んだ・・・・という代用食の苦労話は枚挙にいとまが無い。





そんな時代をくぐり抜けて来た戦前生まれの方々に「パン」と言っても、複雑な表情をなさる場合もあるだろう。苦労話としてはいくらでもネタをお持ちでも、いま実際にパンを食べたいかどうか・・・・これは難しい問題である。





そういえば、團先生がこんなことも仰せだった。





「ぼくたちはね、戦時中から終戦直後にかけて、とにかくお米に飢えていたんだよ。銀シャリ、というアレね。白いご飯。玄米とかじゃなくて、雑穀の混ざっていないご飯ね。渇望していたなあ。せっかくご飯を食べられる時代になったから、思いっきりご飯を食べたいんだよね。幸せな時代になったんだよね。」





團先生は、ご飯をとても美味しそうに召し上がる人だった。戦前の日本を生き抜いて来られた先達は、銀シャリに憧れながら青春時代を過ごさればならなかった。そういう時代を経てパンは代用食から主食の一角を担うようになり、今や外食産業はパン抜きでは成立出来ないほどになった。やはり日本は「平和」で「豊か」になったのだ。そうでなければ、私のように「パンは大好き」だの「讃岐うどんは四国産が最高」だの「日本蕎麦」がどうの・・・・等とは言っていられない時代が続いたのだろう。





戦前の日本を支えて来られた偉大な先人達に感謝をしつつも、今朝の食卓にトーストとサラダを並べる。確実に私の中身は欧米化しているのかも知れませんなあ。嗚呼。






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