1985年/昭和60年)8月12日………
ボーイング747SR-100型機(JA8119号機)は、日航の定期便として以下のフライトをこなしていた。
◆羽田~札幌千歳503便
◆札幌千歳~羽田504便
◆羽田~福岡363便
◆福岡~羽田366便
(17時12分羽田空港到着)
この機体が、
★羽田~大阪123便
として18番スポットで待機していた。
私は、翌日13日の大阪での本番(アンサンブル)で、この便に乗るために羽田空港に居た。日航のカウンター待ち合わせ時間は16:30だったので、私は早めに浜松町駅からモノレールに乗り、15:40頃には羽田空港に着いて本屋をウロウロしていた記憶がある。
当時私は大学に勤務(専任1校・非常勤2校)していて、夏期休暇には演奏活動を詰め込んでいた。
日航カウンター前は家族連れやビジネスマンでごった返していた。私と共演仲間の合計6人は、飛行機のチケットを持つマネージャー(当時)を待っていた。
だが、16:30を過ぎ、17時になってもマネージャーが現れない。
次第に焦る我々の前に、歌手の坂本 九さんが現れた。坂本さんとは当時の所属事務所間の交流で懇意だった。
「あれぇ、ノンちゃん(当時の私のニックネーム)どこ行くの?」
「大阪です。123便なんですが、マネージャーがチケット持ってるから手続き出来ないんですよ」
「あれま!それは大変だね。事故とかじゃないといいけど」
坂本さんは、かつてのマネージャー氏の選挙演説の応援のために大阪に向かうらしかった。しかも同じ123便。
「でもね、満席らしくてボクは空席待ちなんだよぉ。最終便までいっぱいだから、乗れるやつでいいって空席待ちかけてもらったんだ。」
そんな会話を交わしているうちに、とうとう 「……日本航空・大阪行き・JAL123便の空席待ち番号、●●番から◆◆番までのお客様は、日本航空カウンター●●番の窓口にて‥‥」 というアナウンスが流れた。
坂本さんは、自分のチケットを確認し、
「あ、ボク乗れそうだ、……ノンちゃんごめんね!あっちで会おうね!明日、心斎橋あたりで一杯、ね!」
坂本さんは私に手を振って、手続きのカウンターに走って行った。まさかこれが坂本さんと最後の会話になるとも知らずに、「まいったなこりゃ!オレ達の席ねぇぞ」「空席待ちって事は、我々の席は潰されたかもな」とか言いながら、指定待ち合わせ場所から動けず立ち尽くしていた。
マネージャーM女史が半狂乱で到着した時は18:10を過ぎていた。
この段階で、123便は離陸したか、滑走路を進んでいるか……のはずである。
マネージャーM女史。この日に限って事務所からタクシーに乗って羽田空港にやって来た。
・・・・あのねぇ!夕方なんだからさ、混雑するに決まってるから普通ならタクシーなんか避けて電車使うのが常識でしょうが!とか我々に散々イヤミ云われながらモノレールに乗り、浜松町から東京駅に到着して新幹線に乗った。
しかし、その時間帯に席なんか空いている訳がない。親子連れや帰宅ビジネスマンがワンサカ居る訳だ。
最初からわざとグリーン車輌に乗る。
グリーン車は満席だったが、我々はドア付近のデッキに新聞紙を敷いて座り込み、マネージャーに買わせたビールを開ける。グリーン車はたとえ座れなくてもグリーン券が必要だ。しかし、グリーン車でさえ満席の時間帯で普通車の通路がどういう状態になっているか、考えるまでもない。車掌が来たら、マネージャーに金を払わせるつもりだった。
しかも「のぞみ」なんて無い時代だから、現在より時間が掛かる。我々は京都まで座席に座れず、通路の新聞紙の上でビールを飲んでいた訳だ。
これで背中に段ボールがあったらホームレスの酒盛りである。
新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り換えて「千里中央駅」で下車し、さらにタクシーに分乗して宿泊予定の『阪急エキスポパーク』に到着した時は、23時を過ぎていた。ホテル内レストランはどこも21時ラストオーダー、22時で閉店。あとはルームサービス位しかない。コンビニも至近距離にはないようだったし、クタビレていて今さら食事どころではなかった。私は部屋に入るなりシャワーを浴びて寝てしまった。
・・・・・・翌、8月13日。
07:30頃、朝食バイキングを食べに1階に降りる。仲間とバイキング形式の朝食をトレーに乗せている最中、顔面蒼白のマネージャーM女史がやって来た。
我々の乗るはずだった飛行機が墜落だのなんだのと、しどろもどろに呟いている。M女史は昨夜の段階で知っていたが、あえて我々には云わなかった。我々がM女史とほとんど口をきかなかったために伝えられなかったのだろう。当時の新幹線は現在のようにニューステロップなど車内表示されない。されたとしても京都までドア付近でヤケ酒くらっていた我々には表示を見るチャンスなど無い。
マネージャーM女史の話だけではなく、周りの宿泊客たちも「下手すると全員ダメかもな」「群馬県だか長野県だかの山に墜ちたとか」と口々に話題に乗って来る。
・・・・・・もう朝食どころではなかった。私はトレーを戻し、ロールパン1個だけ掴んで急いで自室に戻った。
TVをつけてNHKを見る。
ブルーの画面に、白抜き文字でカタカナ名簿みたいなものが下から上にゆっくりスクロールしている。
日本航空123便の乗員乗客名簿だという。
・・・・・・オオシマ ヒサシ
アナウンサーによれば、坂本九さんの本名だという!
恐怖感より悲しみのほうが逆転した瞬間だった。
・・・・・・そんな!!!!!
我々が乗れなかった飛行機の“空席待ち”に掛かって搭乗した九さん……
・・・・・・まるで、身代わりじゃないか!!
我々7人が乗れなかったという事は、その分だけ7人が身代わりになった・・・・という事を意味する。
その日の本番は全員ボロボロで、現地のプロモーターが心配して「皆さん、今日はどうしたんですか・・・・???」と休憩時間に声をかけて来たほどである。
九さんとは、29年前の昨日に別れて以来会っていない。用事が済んだら心斎橋の近くで一杯やろう、と言ってくれていた。九さんは約束を破った事がない。この約束はまだ有効のはずである。
私は九さんが大好きだった。TVで里見八犬伝(人形劇)のナレーションをやっていた時の九さんの軽妙な語り口が大好きだった。
この業界に入って、九さんに最初に会った時にその話をしたら、
「・・・・本当に!?嬉しいね!ノンちゃん、握手しようか!!」
という屈託のない人だった。以来、何かと声を掛けて下さり、何度もごちそうになった。
ごちそうになった回数の多さは、園田高弘師匠の次に坂本九さんだったかも知れない。
「若い時は食べとかなきゃだめだよ」と言って、私を励ましてくれた人だった。
「ボクは歌で、ノンちゃんはピアノで、人の心に何かを訴える…ボクたちはさ、そのために生かされていると思うんだ」
九さんが私に何度も言っていた事だ。
・・・・あれから29年が経ち、私は九さんの年齢をとっくに追い越してしまったが、今でも九さんと一杯やりたいと思う。
私は御巣鷹山にも行った。九さんの遺体や死に顔を見ていない。だから九さんは御巣鷹山で姿を消しただけだと思っている。
・・・・・・九さん、約束守って下さいよ!29年待ってるんですから!予定がつかないならちゃんと電話下さいよ!当時私が居た事務所宛てでいいですから!
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