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自殺者が出るまで袋叩きを続けてどうするの?/STAP細胞問題

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笹井氏.jpg



・・・・危惧していた事が、とうとう起こってしまった。





世界中の科学界から注目されているSTAP細胞問題と論文撤回問題。





研究ユニットリーダーの小保方氏に対する異常なまでのバッシングやNHKの過剰取材

(小保方氏は負傷している)、理科学研究所の「小保方氏への全責任なすりつけ」⇒「トカゲのしっぽ切り」
揚げ句の果ては、母校・早稲田大学による博士号剥奪論争 etc.....



小保方さん.jpg



マスコミから寄ってたかって吊るし上げられていた小保方氏の記者会見を見ながら、いずれこの問題で自殺者が出るだろうと思っていた

(私は小保方氏の自殺を非常に心配していた)が、別な所から出てしまった。あろう事か、理科学研究所/発生・再生科学総合研究センター副センター長で、世界に誇る幹細胞研究の第一人者・笹井芳樹氏。STAP細胞研究に於いて小保方氏の「教官」であり上司である、という立場の研究者であった。



笹井氏2.jpg



この国は「袋叩き」が大好きな国民性で、死者(犠牲者)が出ないと事態を収束させる事が出来ないようである。小学生以下の集団心理だ。


かつてライブドア事件でマスコミから寄ってたかってバッシングされた堀江貴文氏は、笹井氏の訃報に際して

「あの袋叩き状態は経験してみないとわからない。潔白で後ろ指さされるような事してないなら自殺なんかしないって思ってる人は甘いよね」 Twitter に投稿している。堀江氏なればこその強烈な説得力だ。





太田肇氏(同志社大教授/組織論)は「理科学研究所は、論文を発表する時は組織を前面に出しながら、問題が発覚した時は個人に責任を取らせようとしている印象を受けた」と述べている。STAP細胞問題も笹井氏の自殺も、その組織体質が生んだものではなかったか?





「自殺するなんて弱い人間のやること」という暴言を時々目にするが、自殺という道を選んだ人間に強いも弱いもへったくれもない。

人間として脆弱なくせに「具合が悪そうなフリ」「病気のフリ」「その場から居なくなるフリ」「自殺するフリ」をする奴なんて私の周辺だけでもいくらでもいるし、弱いどころか強靭な精神力を持っていても何かに納得が行かなくて自死を選択する場合だってあるだろう。





ひとつ残されたのは、理科学研究所が笹井氏を「精神的に疲れていた」だの「必要以上のプレッシャーが掛かっていた」だのと今更ゴチャゴチャ分析したところで、笹井氏は永遠に戻って来ない・・・・という事実だけだ。





笹井氏が何を思って自ら命を断ったのか知りようもないが、責任感が人一倍強い人間なら「自分が消える事で一連の問題の幕を引こう」と考えたのかも知れないし、堀江貴文氏が

Twitter で述べている「とにかく、袋叩き状態から逃げたかった」だけなのかも知れない。あるいは「もう、こんな世の中で生きているのはバカらしい」と思ったのかも知れない。





暴言を吐かせてもらえば、STAP細胞の有無なんかどうでもいい。早く小保方氏を普通の生活に戻してあげるべきだ。STAP細胞を再現?そんな事もどうだっていい。「できるもんならやってみろ」的な、ある種の “袋叩き状態” と何の変わりもない再現実験など馬鹿馬鹿しいだけだ。これで小保方氏が理科学研究所の内部妨害や監視にもかかわらず再現に成功したら、今度は誰をスケープゴードにするつもりだ?笹井氏みたいに自殺するまで袋叩きにするのか?





理科学研究所は7日、「関係者の精神的負担に伴う不測の事態を防がなければならない。静寂な環境を与えていただくことを切にお願いする」などと今更ながらHPで発表したが、

チャンチャラ可笑しいとはこの事だ。なぜ小保方氏がマスコミから袋叩きに遭っていた時にこうした声明を出さなかったのだ。自殺者が出てから泥縄式に何をどうホザいたって全ては手遅れだろうが。





STAP細胞問題が持ち上がってから、今まで私はこの場所(ブログ)や

Facebook あるいは Twitter で意見を言う事を避けて来た。小保方氏に関する事も検索欄を賑わすだけなのであえて話題にしなかった。ネットの中でしたり顔でホザく部外者の数を一人でも減らして小保方氏のネット周辺だけでもせめて静かにしてあげたかったからだ。しかし、予想通りというか「自殺者が出る」という最悪の事態になった以上、我々部外者は第2、第3の自殺者を出さないように静かな配慮をする事しかないんじゃないか?




この問題をマス

ゴミと一緒になってネットでキャアキャア騒ぎたてるのは愚者でしかなかろう。理科学研究所もクダラない面子などかなぐり捨てて一刻も早く小保方氏を解放してあげなさい。


もっとも、小保方氏はこの茶番が一段落したらさっさと日本を離れ、二度と戻っては来ないだろうけど。




一世(issei)  



防火基準を満たすホテルや旅館の表示制度とは-政府広報: PR

昨日の打ち合わせ

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カレーを刹那的に食べたくなり・・・・

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29年前の昨日の事…日航機墜落事故

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1985年/昭和60年)8月12日………




ボーイング747SR-100型機(JA8119号機)は、日航の定期便として以下のフライトをこなしていた。



◆羽田~札幌千歳503便


◆札幌千歳~羽田504便


◆羽田~福岡363便


◆福岡~羽田366便
(17時12分羽田空港到着)




この機体が、


★羽田~大阪123便


として18番スポットで待機していた。




私は、翌日13日の大阪での本番(アンサンブル)で、この便に乗るために羽田空港に居た。日航のカウンター待ち合わせ時間は16:30だったので、私は早めに浜松町駅からモノレールに乗り、15:40頃には羽田空港に着いて本屋をウロウロしていた記憶がある。




当時私は大学に勤務(専任1校・非常勤2校)していて、夏期休暇には演奏活動を詰め込んでいた。




日航カウンター前は家族連れやビジネスマンでごった返していた。私と共演仲間の合計6人は、飛行機のチケットを持つマネージャー(当時)を待っていた。




だが、16:30を過ぎ、17時になってもマネージャーが現れない。




次第に焦る我々の前に、歌手の坂本 九さんが現れた。坂本さんとは当時の所属事務所間の交流で懇意だった。





「あれぇ、ノンちゃん(当時の私のニックネーム)どこ行くの?」



「大阪です。123便なんですが、マネージャーがチケット持ってるから手続き出来ないんですよ」



「あれま!それは大変だね。事故とかじゃないといいけど」




坂本さんは、かつてのマネージャー氏の選挙演説の応援のために大阪に向かうらしかった。しかも同じ123便。



「でもね、満席らしくてボクは空席待ちなんだよぉ。最終便までいっぱいだから、乗れるやつでいいって空席待ちかけてもらったんだ。」



そんな会話を交わしているうちに、とうとう 「……日本航空・大阪行き・JAL123便の空席待ち番号、●●番から◆◆番までのお客様は、日本航空カウンター●●番の窓口にて‥‥」 というアナウンスが流れた。




坂本さんは、自分のチケットを確認し、





「あ、ボク乗れそうだ、……ノンちゃんごめんね!あっちで会おうね!明日、心斎橋あたりで一杯、ね!」




坂本さんは私に手を振って、手続きのカウンターに走って行った。まさかこれが坂本さんと最後の会話になるとも知らずに、「まいったなこりゃ!オレ達の席ねぇぞ」「空席待ちって事は、我々の席は潰されたかもな」とか言いながら、指定待ち合わせ場所から動けず立ち尽くしていた。




マネージャーM女史が半狂乱で到着した時は18:10を過ぎていた。
この段階で、123便は離陸したか、滑走路を進んでいるか……のはずである。




マネージャーM女史。この日に限って事務所からタクシーに乗って羽田空港にやって来た。

・・・・あのねぇ!夕方なんだからさ、混雑するに決まってるから普通ならタクシーなんか避けて電車使うのが常識でしょうが!とか我々に散々イヤミ云われながらモノレールに乗り、浜松町から東京駅に到着して新幹線に乗った。




しかし、その時間帯に席なんか空いている訳がない。親子連れや帰宅ビジネスマンがワンサカ居る訳だ。




最初からわざとグリーン車輌に乗る。




グリーン車は満席だったが、我々はドア付近のデッキに新聞紙を敷いて座り込み、マネージャーに買わせたビールを開ける。グリーン車はたとえ座れなくてもグリーン券が必要だ。しかし、グリーン車でさえ満席の時間帯で普通車の通路がどういう状態になっているか、考えるまでもない。車掌が来たら、マネージャーに金を払わせるつもりだった。




しかも「のぞみ」なんて無い時代だから、現在より時間が掛かる。我々は京都まで座席に座れず、通路の新聞紙の上でビールを飲んでいた訳だ。
これで背中に段ボールがあったらホームレスの酒盛りである。




新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り換えて「千里中央駅」で下車し、さらにタクシーに分乗して宿泊予定の『阪急エキスポパーク』に到着した時は、23時を過ぎていた。ホテル内レストランはどこも21時ラストオーダー、22時で閉店。あとはルームサービス位しかない。コンビニも至近距離にはないようだったし、クタビレていて今さら食事どころではなかった。私は部屋に入るなりシャワーを浴びて寝てしまった。




・・・・・・翌、8月13日。




07:30頃、朝食バイキングを食べに1階に降りる。仲間とバイキング形式の朝食をトレーに乗せている最中、顔面蒼白のマネージャーM女史がやって来た。




我々の乗るはずだった飛行機が墜落だのなんだのと、しどろもどろに呟いている。M女史は昨夜の段階で知っていたが、あえて我々には云わなかった。我々がM女史とほとんど口をきかなかったために伝えられなかったのだろう。当時の新幹線は現在のようにニューステロップなど車内表示されない。されたとしても京都までドア付近でヤケ酒くらっていた我々には表示を見るチャンスなど無い。




マネージャーM女史の話だけではなく、周りの宿泊客たちも「下手すると全員ダメかもな」「群馬県だか長野県だかの山に墜ちたとか」と口々に話題に乗って来る。




・・・・・・もう朝食どころではなかった。私はトレーを戻し、ロールパン1個だけ掴んで急いで自室に戻った。




TVをつけてNHKを見る。




ブルーの画面に、白抜き文字でカタカナ名簿みたいなものが下から上にゆっくりスクロールしている。




日本航空123便の乗員乗客名簿だという。




・・・・・・オオシマ ヒサシ




アナウンサーによれば、坂本九さんの本名だという!




恐怖感より悲しみのほうが逆転した瞬間だった。





・・・・・・そんな!!!!!




我々が乗れなかった飛行機の“空席待ち”に掛かって搭乗した九さん……




・・・・・・まるで、身代わりじゃないか!!




我々7人が乗れなかったという事は、その分だけ7人が身代わりになった・・・・という事を意味する。




その日の本番は全員ボロボロで、現地のプロモーターが心配して「皆さん、今日はどうしたんですか・・・・???」と休憩時間に声をかけて来たほどである。




九さんとは、29年前の昨日に別れて以来会っていない。用事が済んだら心斎橋の近くで一杯やろう、と言ってくれていた。九さんは約束を破った事がない。この約束はまだ有効のはずである。




私は九さんが大好きだった。TVで里見八犬伝(人形劇)のナレーションをやっていた時の九さんの軽妙な語り口が大好きだった。




この業界に入って、九さんに最初に会った時にその話をしたら、



「・・・・本当に!?嬉しいね!ノンちゃん、握手しようか!!」



という屈託のない人だった。以来、何かと声を掛けて下さり、何度もごちそうになった。




ごちそうになった回数の多さは、園田高弘師匠の次に坂本九さんだったかも知れない。

「若い時は食べとかなきゃだめだよ」と言って、私を励ましてくれた人だった。




「ボクは歌で、ノンちゃんはピアノで、人の心に何かを訴える…ボクたちはさ、そのために生かされていると思うんだ」




九さんが私に何度も言っていた事だ。





・・・・あれから29年が経ち、私は九さんの年齢をとっくに追い越してしまったが、今でも九さんと一杯やりたいと思う。




私は御巣鷹山にも行った。九さんの遺体や死に顔を見ていない。だから九さんは御巣鷹山で姿を消しただけだと思っている。




・・・・・・九さん、約束守って下さいよ!29年待ってるんですから!予定がつかないならちゃんと電話下さいよ!当時私が居た事務所宛てでいいですから!




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月下美人

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月下美人.jpg



月下美人(花)。台湾の烏龍茶用の古木にも同じ名前のものがある。値段は半端なく高いが、素晴らしい香りのお茶。



モーツァルト作曲のヴァイオリン・ソナタ‥‥???

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モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ(と言われている楽曲)は、以下の二通りの性格に分かれる。




◆ヴァイオリンの伴奏(オブリガート)付きのピアノ・ソナタ


◆ヴァイオリンとピアノが互角のバランスを保つ「二重ソナタ」(1782年以降)




結論から言ってしまえば、モーツァルトが一般的な意味でのヴァイオリン・ソナタというものを作った“事実”はないのである。




「モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ」と題してリリースされているLPレコードやCDのお陰で、多くの方々はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタと認識して購入し、そして聴いている。 しかし、それはレコード会社の誤認によるものであり、モーツァルトは晩年になってヴァイオリンとピアノが対等にわたり合う「二重ソナタ」(ヴァイオリン・ソナタと認識されている第37番以降の作品/1782年以後)を作曲しているが、それまで作曲されたヴァイオリン・ソナタ(と言われて来たもの)は、ヴァイオリン伴奏(オブリガート)付きのクラヴサン(或いはクラヴィーア)・ソナタなのであり、主役はあくまでピアノなのである。




考えてみれば、モーツァルトの時代はピアノは上流階級のアマチュアの弾く楽器であり、ヴァイオリンはプロの弾く楽器であった。王室のお抱え音楽家であったモーツァルトは、王女や上流階級夫人にピアノのレッスンをする時、

傍らでヴァイオリンを弾いて彼女たちのピアノ(クラヴサン)演奏を引き立てて差し上げたのである。




そもそも、モーツァルトのピアノ・ソナタは宮廷勤め時代の作品ほど演奏が容易に書かれている。これは、演奏するのがモーツァルト自身ではなくアマチュアである貴婦人たちであったからである。




…この認識を誤ると大変な事になる。
例えば1950年代にヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)が、売り出し中の若手ブルックス・スミス(ピアノ)と録音した『モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ 第26番 変ロ長調 K.378』(米国 RCA)と題されてリリースされたLPレコードがある。



この曲の冒頭が始まるや、ハイフェッツのヴァイオリンが



「♪ファレファレファレファ/♭ミド♭ミド♭ミド♭ミ/♭ミド♭ミド♭ミド♭ミ/ファレファレファレファ・・・・・・」



オブリガートを弾き始める。一方のスミスのピアノはオブリガートどころか堂々たるピアノ・ソナタである。この時期になると「二重ソナタ」の様相が少しずつ出始めているから極端にピアノばかりにウェイトは置かれていないものの、冒頭のヴァイオリンはどう聴いてもオブリガートでしかない。実際に曲を聴いて頂ければその不可解さがよく判る。(参考動画↓)



YouTube ⇒ (参考演奏)モーツァルト:ヴァイオリンとピアノの為のソナタ 第26第 変ロ長調 k.378 ※注/ハイフェッツではない(演奏者不詳)



もしもこの曲が本来の意味でのヴァイオリン・ソナタとして作曲されたものであったならば、主役であるはずのヴァイオリンに冒頭でオブリガートから弾かせるはずはない(少なくともピアノが前奏で、ヴァイオリン・パートは未開始)と考えるのが自然である。この曲の第1楽章の提示部が楽曲中に出てくるたびにヴァイオリン・パートは「♪ファレファレファレファ・・・・」と、まずオブリガートを弾かされているのだ。

・・・・天下のハイフェッツが「
オブリガートを弾かされている」事に、別の意味での恐怖を感じてしまうのは私だけだろうか。




何故こんな珍妙な事が起こってしまったかというと、

「モーツァルトはヴァイオリン・ソナタを後世に遺した」というレコード会社のプロデューサーの誤認のためだと思われる。プロデューサー氏の「考え」を推測してみると・・・ハイフェッツは天下の巨匠ヴァイオリニストであるのに対して、スミスは駆け出しの若手であり、極端な話ピアノ・パートはハイフェッツのヴァイオリンの邪魔をしない程度に「それなりに」弾いてさえくれればよかった。
もっと極端に言えば、ハイフェッツのヴァイオリンよりも出しゃばらない平均的な演奏さえしてくれれば、ブルックス・スミスでなくても誰でも良かったのだろう。プロデューサー氏には天下のハイフェッツの弾いているヴァイオリン・パートがまさか
オブリガートだとは考えもしないから、主旋律でもないヴァイオリン・パートを全面的に押し出したマスタリングをさせ、本来の主役であるピアノ・パートはヴァイオリンより目立たないバランスでマスタリングさせてしまったという訳だ。




だから、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ(と認識されているもの)は、中期~晩年の二重ソナタを除けばヴァイオリン・パートをそっくり外してしまってもピアノ・ソナタとしてほとんどの部分が立派に成立してしまう。ピアノが主役なのだから当たり前なのだが。




それもそのはずで、モーツァルトにしてみればこれらの自作品はピアノを演奏する上流階級夫人たちの為に作曲した「あくまでアマチュアのピアノが主役の楽曲」であり、ヴァイオリン・パートに書いたものは、主役のピアノを引き立てる為のモーツァルト自身(要するにプロの演奏家)の演奏するヴァイオリン“伴奏パート”だったからである。だから、最悪の場合ヴァイオリン奏者がいなくても、とりたてて演奏そのものには支障がないように作曲されているという訳だ。




つまり、ヴァイオリンのオブリガート付きピアノ・ソナタから始まって、ヴァイオリンとピアノが対等のバランスを取る「二重ソナタ」までがモーツァルトの作曲した形式であり、いわゆるヴァイオリンが完全に主役となる本来の意味でのヴァイオリン・ソナタは、モーツァルト以後のベートーヴェンまで待たねばならないのである。




しかし、後期に作曲されたヴァイオリン・ソナタ(と認識されている二重ソナタ)第40番 変ロ長調 K.454(1784年作曲)は、モーツァルトがヴァイオリン・パートにいよいよ本腰を入れ始めた時代の作品である。レジーナ・ストリナザッキという女流ヴァイオリン奏者とのコンサート共演のために書いた曲であり、ヴァイオリン・パートをピアノの引き立て役としてではなく、ヴァイオリン奏者をピアノと同等の主役と意識して(ピアノと対等なバランスで)作曲された。 しかし、ヴァイオリン・パートを書き上げたのは演奏会前日の段階であり、ピアノ・パートを含めたフルスコアは(モーツァルトの頭には完成していたが)とうとう楽譜にならなかった。当日は走り書きのようなヴァイオリン・パート譜をピアノの譜面台に置き、ヴァイオリンとのリハーサルさえ行わずにぶっつけでモーツァルトは初演しているのだ。




モーツァルト自身はピアノ・パート譜に書くべき音符は全て頭の中に出来上がっているが、ヴァイオリンのストリナザッキは本番で生きた心地はしなかったであろう。これも、ヴァイオリン・パートの重要性をモーツァルトがあまり認識せず、ヴァイオリン・パートをこれまでより華やかにして目立たせておけば、後は自分がしっかりピアノを弾けばコンサートは大丈夫…という程度の認識だった事が窺える。




それでもこの第40番はモーツァルト自身によって初演の後に細部が修正され、自分以外の人間がピアノ・パートを担当できるようにフルスコア(総譜)に仕上げた事で、ヴァイオリンの参加したソナタ形式の室内楽作品としては見事な輝きを発する曲になった。この曲はグリュミオーとクララ・ハスキルの至高の名演が遺されており、天才モーツァルトの手によるヴァイオリンとピアノの至福の調和を堪能する事が出来る。




仮にモーツァルトがヴァイオリンを完全に「主役」にしたヴァイオリン・ソナタを本気で書いていたら、間違いなく音楽史上に燦然と輝く傑作ヴァイオリン・ソナタを遺したに違いないのではないか。
或いは、モーツァルトの寿命が35歳ではなく、40歳・50歳と続いていたら、二重ソナタではない本来の意味でのヴァイオリン・ソナタがこの世に遺された可能性も否定出来ないのである。




ルジェリ(1680年製).jpg

(画像A) モーツァルトの所有楽器だったとされている1680年製のヴァイオリン




24歳のモーツァルト、ナンネル(姉)、父レオポルドとヴァイオリン.jpg

(画像B) 左から姉ナンネル、24歳のモーツァルト、ヴァイオリンを持った父レオポルド



さて、ヴァイオリンの最高の名器と言えば、ストラディヴァリやアマティ、ガルネリなどが思い浮かぶだろう。いずれも17~18世紀にかけてイタリアのクレモナなどで製作され、現在では一挺が数億円という値段である。ここまで高額になるとさすがに個人所有というのは難しいため、財団などが所有して演奏家に貸し出す・・・・というケースが多い。




そのヴァイオリンの名器に

フランチェスコ・ルジェリというものがあるのをご存じだろうか。




フランチェスコ・ルジェリ

(Francesco Ruggeri 1630年~1698年)は、イタリアのクレモナで活躍したヴァイオリン製作者。ストラディヴァリやガルネリ、アマティより一般の知名度は低いが、ヴァイオリン界では著名な製作者だ。そのルジェリが1680年に製作したとされる、このヴァイオリン(画像A)こそ、モーツァルトの父レオポルドが購入して愛息に弾かせた楽器だった。




その後、どういう紆余曲折を経たのかブラジルの某博物館で分解保存されていたものが発見される。復元・修理を担当したのはヴァイオリン修理で内外に著名な中澤宗幸氏(楽器製作・修復会社「日本ヴァイオリン」創業者)。楽器の所有者はロサンゼルス在住の米国人という事だが、所有者自身はヴァイオリンを演奏しないという。




楽器にはモーツァルト父子が所有し演奏した楽器である鑑定書が付けられており、そうした付加価値もあるせいか現在の価格は時価20億円だという。誰がつけた値段かは知らないが、恐ろしい数字である。確かにモーツァルトの愛器であれば、それ位のプレミアムが付いてしまうものなのかも知れない。




この楽器は、モーツァルトが14歳の頃に父レオポルドに連れられてイタリア公演旅行を行った際、ヴァイオリン製作で有名なクレモナに立ち寄り、父レオポルドが息子のために当地で購入したといわれている。当時モーツァルトは14歳。ボローニャのアカデミー会員(世界最年少記録)となった年である。いくつか残されている肖像画

(画像B)に、父レオポルドとこのヴァイオリンが描かれているものがあり、楽器の模様(?)のようなものが同じ位置に描かれていると言われている。私自身、絵と楽器を直接見比べたわけではないから真偽の程はわからないが、事実だとすればモーツァルト自身が演奏・作曲に使った楽器である証拠のひとつになるのだが。




モーツァルトの生涯のうち、ほぼ3分の2は宮廷付き音楽家であり、上流階級の貴婦人たちに気遣いをしなければならない立場だった。残り3分の1は宮廷を辞して「独立」した音楽家であった。つまり、顧客・作曲依頼主が皇帝・貴族階級から、一般市民(観客)になったという事である。モーツァルトが最初から宮仕えではなく「独立音楽家」だったら、作品中のヴァイオリンの位置付けも違ったものになったのではないだろうか。少なくとも、ヴァイオリン協奏曲はモーツァルト自身が宮廷オーケストラをバックに演奏する目論みがあった作品だけに、ヴァイオリン・パートは完全かつ雄弁なソロ・パート(間違ってもピアノの引き立て役としてのオブリガートなど出て来ない)である。
そう考えれば、モーツァルトが宮仕えでなかった場合、ヴァイオリンとピアノの二重ソナタどころか、ヴァイオリンを完全に「主役」としたソナタがこの世に遺された可能性は高い。天才モーツァルトが本気でヴァイオリンを主役とした「ヴァイオリン・ソナタ」を書いたとしたら、おそらくや音楽史上に燦然と輝くヴァイオリン・ソナタとなったに違いないのである。嗚呼・・・・・。



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亜熱帯

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ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109

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91年前の9月1日…関東大震災

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未曾有の被害をもたらした日本史上最大の震災として今も記録されている関東大震災から91年目を迎えた。




当時を記憶している人はもう生存していないと思われるが、1995年の阪神淡路大震災・2011年の東日本大震災と合わせて、

明治維新以降の3大震災と言ってもいいかも知れない。




定義/1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害が、

関東大震災といわれるものである。東京・神奈川を中心として千葉・茨城から静岡東部までの内陸と沿岸で、広範囲に甚大な被害をもたらした。地震・大火災による死者は確認された数だけでも10万人を超えている。




凌雲閣(浅草十二階)カラー .jpg

凌雲閣(浅草十二階)カラー復元写真.jpg


大震災前の凌雲閣(りょううんかく。通称・浅草十二階)。1890年に開業し、日本初の電動式エレベーターも完備した当時東京で最も高い塔で、赤レンガのデザインが洒落た建築だった。



関東大震災・凌雲閣(浅草十二階)1.jpg


関東大震災直後の凌雲閣。見るも無惨に崩壊し、ちょうど最上階の展望台にに居た12~3人の見物客は、看板に引っ掛かって一命を取りとめた1人を除き全員が犠牲となった。




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震災で焼失した両国国技館。このように東京府(当時は都ではなく府だった)各所の建造物は軒並み被害を受けた。霞ヶ関の省庁もホテルも例外ではなかった。




関東大震災・全焼した神田駅。.jpg


全焼した神田駅。神田駅の待合室やホームに避難していた約550名が、逃げ場もなくここで焼死。停車中の中央線電車(電動車2両、付随車1両の3両編成)も全焼した。山手線、中央線、どこも同じような被害だった。




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日比谷交差点。昭和50年代に老人ホームの慰問演奏をした時、「震災の瞬間から10分くらい後は、阿鼻叫喚の地獄絵図だった」と被災者に聞いた。




関東大震災・総武線、両国橋(現両国)~錦糸町の高架橋梁上。.jpg


総武線、両国橋(現両国)~錦糸町の高架橋梁上の光景。この区間では高架橋の橋脚の多くが切断されて線路がグニャリと歪んだ。両国橋~錦糸町~亀戸は全線にわたり火災に包まれて線路も枕木ごと被害に遭い、全ての電車が立ち往生して被災した。橋から電車ごと転落した例も多かった。




関東大震災・銀座8丁目(土橋).jpg


震災直後の銀座8丁目。新橋から土橋の交差点付近。左に行くと現在のコリドール街。この地域は震災直後から、いち早く「炊き出し」を行った。




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震災直後の銀座通り。まだ火災の煙りが見える。震災直後は「避難する事」が鉄則だが、避難するための交通手段をどうするか・・・・も切実な問題だった。




関東大震災・日暮里駅前。機関車に乗って避難する人々.jpg



日暮里駅から避難用機関車に乗る被災者。蒸気機関車の客席ゆえ現在ほどキャパが無く、客車につかまるようにして汽車に乗る人々が多かった。




関東大震災・靖国神社に建てられた仮設住宅.JPG


被災者のために、あちこちの寺院や神社の境内内に仮設住宅が建てられた。画像は靖国神社の境内に建てられた仮設住宅。それでも被災者総数に照らすと焼け石に水でしかなかった。





阪神淡路大震災、東日本大震災の被害は近代のものだ。建物等のインフラは大正12年とは比較にならないほど進化した。・・・・・・それでも、阪神淡路大震災・東日本大震災ではあれほどの人命が失われた。もしも大正12年当時のインフラ状態で両震災が起こったとしたら、死者・行方不明者は10数倍に達していたのではなかったか。




首都圏直下型地震や富士山噴火の危険性など、日本が抱えている爆弾はまだまだ多い。最近では蔵王山が活動期に入ったという予測がある。海底プレートの接合部の真上にあり、しかも7つの火山帯

(千島・那須・鳥海・富士・乗鞍・白山・霧島)を抱えているのが日本列島である事を考えた時、単位面積あたり世界最多の原子力発電所を建てるなど狂気の沙汰 としか思えない。




もしも1923年の時点で関東のどこかの海岸付近に原発が存在していたら、関東大震災とともに日本列島の関東全域は数百年にわたって人の住めない放射能汚染地域になっていたかも知れない。




関東大震災に因んで9月1日は「防災の日」とされているが、人間が自然災害を予防出来るわけがない。出来る事といえば災害に備える事だけだ。地震・火災・津波・富士山噴火の火山灰の影響に始まって、非常食や燃料などの備蓄・緊急時の行動や連絡方法・応急処置の方法と医薬品の備蓄・・・・防災というより備災(災害に備える)の日としたほうがよいのではないだろうか。




毎年9月1日が来るたびに自宅の備蓄状況その他をすべて確認しないと落ち着かない。いつしかそこに1月17日が加わり、3月11日も加わった。備えあっても憂いが消えないのが自然災害なのかも知れない。人類の防御が及ばない領域だからだ。




ピアノを長持ちさせるには……

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ハンマーヘッド.jpg

ピアノのハンマー。真ん中と左は49年経過して磨耗したハンマー。右は新品のハンマー。



ときどき尋ねられる事だが、ピアノの耐用年数はどれくらいか?という命題を考えた時に、私は 「メンテナンスさえ怠らなければ、ピアノは基本的に一生モノ」 という結論を持っている。きちんとしたメーカーが長年のノウハウで製造したピアノが10年やそこらでブっ壊れる事などない。季節の変わり目に調律を入れ、アクションの保守点検を怠らず、設置環境が高温多湿にならないように気を配っていれば40年でも50年でも大丈夫だ。消耗したハンマーを交換し、弦やチューニング・ピン等の経年劣化を見極めて適宜交換すれば、それこそ100年以上持つ。ピアノ文化が長い欧米では所有者が大切に使い続けて、2~3世代で100年以上頑張っているピアノなんていくらでも存在する。





例えばスタインウェイ

( STEINWAY & SONS ) は、100年以上前の楽器を再調整して外装を補修し、ヴィンテージ楽器として販売している。かくいう私もヴィンテージ・スタインウェイの枯れた音色に魅せられて購入した一人であり、私が現在所有しているスタインウェイ(ハンブルグ製)は今年で50歳である。製造されて以来一度も弦が切れた形跡がないのは、楽器そのもののバランスが良かった事もあるが、とにかく所有者の管理が素晴らしかったのだろう・・・・という事だった。消耗したハンマーを全交換し、経年劣化が進んでいたアクション・レールも特注(復元)交換してもう1年になるが、新しいアクションが小馴れて来てますます具合がヨロシイ。楽器のご機嫌もすこぶるヨロシイ。私のご機嫌はもっとヨロシイ。





ピアノという楽器は、大切に扱えば扱ったなりの音色を出す。子供のために購入したものの、子供がピアノを止めてしまってから忘れ去られ、メンテナンスはおろか調律もされずに



鋼鉄弦をハンマーで叩いて音を出す装置を備えた“家具”



・・・ と化している例は多いらしい。勿体ない事だ。





私は頻繁に調律を依頼するだけではなく、ハンマー等のアクションの点検・微調整も同時にお願いしている。午前中から夜まで掛かる事もしばしばだ。しかし、そうやってメンテナンスを施した直後のピアノは允にゴキゲンがヨロシイ。弾いていると私を誘惑するかのような音色を出す。こまめに気を遣うと相手もトーゼン喜ぶわけで、これは人間サマ(異性)を相手にした場合と似ていなくもない。ははは。





逆に、調律をかれこれ1年以上入れていないというピアノを友人(音楽家ではない)の家で弾いた時は、その楽器のあまりのフテクサレぶりに閉口して思わず提案した。


「俺が調律を1回プレゼントしてやるから、1度ちゃんとメンテナンスしたほうがいい。・・・・さもないと火を吹いたり煙出したりして大ァィ変な事になるぞぉ!」


「げェ、本当かい!?」


・・・ 本当なワケねぇだろうが。





「うちの子のピアノ、そろそろ消耗して来たから音大受験前に新しいピアノに買い換えたら?と楽器店で勧められたんだけど・・・・」 という相談を受けた事がある。ボロボロになったアップライトピアノをグランドピアノに、というならまだ話は分かるが、プロどころか音大生にすらなっていない子供のタッチで10年そこらでヘロヘロに消耗するほどピアノという楽器はヤワじゃないのでありますよ。だから 「 中のアクションをオーバーホールしてやれば新品を買うよりはるかに安上がりだし、楽器もよくなります。 」 とアドヴァイスを差し上げている。
所有楽器がアップライトなら、もう1台・・・という事でグランドピアノを買うのなら賛成しなくもないけれど、アップライトだってメンテナンスをこまめに入れて年数が経てば、ヴィンテージの洒落た音色を出してくれる様になる。ご家庭のアップライトが泣きますぞ。





所有ピアノを名器にするのも古家具にするのも

「 調律(メンテナンス)の回数 」 次第である。ただし注文がある。その調律師と長く付き合う・・・・という事だ。幸い日本の調律師は高度な技術を持った調律師が多い。これは調律という仕事そのものが日本人に向いているからだろう。細やかな仕事に適性を持ち、責任感が強いという日本人調律師に熟練した名手が多いのは当然と言えば当然か。



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さて、我々ピアニストにとって欠かせない存在は、誰が何と言おうと誰も何も言わなくても

「 腕の立つ調律師 」 なのである。響きのよいホール、コンディションの良いピアノ、優れたスタッフ、スポンサー、どれも大切でもちろん欠かす事は出来ない。だが、我々ピアニストは 「 腕の立つ調律師 」 の存在抜きにはステージに立てない。演奏者と調律師は二人三脚。突飛な喩えで申し訳ないが、世界最高の自動車レースである F1(フォーミュラー1)におけるドライバーとコンストラクターズみたいな関係・・・・と言えばお分かり頂けるだろうか。どちらが欠けてもレース(コンサート)は成り立たない。だからドライバーにもコンストラクターズにもレース毎にポイントが与えられ、年間チャンピオンが両部門に設定されている。アイルトン・セナやシューマッハーとかのドライバーだけが持てはやされる訳ではないのだ。





ピアノの場合はどうだろうか。コンサートで全面的に注目されるのは演奏者=ピアニストだけである。宣伝チラシにもピアニストと場所・日時、一部のプログラムだけが明記され、調律師の名前はどこにも記されていない。新聞や雑誌のコンサート批評でも担当調律師をきちんと批評した文章は無い。コンサートではピアニストと二人三脚であるはずの調律師の存在があまりに蔑ろにされてはいないだろうか。





実名を出させてもらえば、私は東京(首都圏)でのコンサートには

小谷幸永氏、仙台(宮城)では遠藤信和氏にそれぞれお世話になっている。名人・達人がひしめく日本のコンサート・チューナーの中にあって、お二人とも 凄腕中の凄腕 であり、この二人に掛かると楽器が二段階グレードアップしてしまう。
私はコンサートだけではなく、東京の自宅スタジオや仙台の第2スタジオのピアノもお二人にそれぞれお世話になっているが、お陰さまでどちらのピアノもご機嫌麗しく、まるで一流のピアニストにでもなった気分にさせてくれる。
当然コンサートともなれば、宣伝チラシやポスターには演奏者(私)と調律師の名前を併記させて頂いている。くどい様だが私のコンサートは調律師と二人三脚だからであり、この凄腕調律師が居てくれなければ私はどうにもならないからである。





小谷氏とは10年を超える付き合いであり、遠藤氏は小谷氏からの紹介である。二人とも私の音やタッチの好みを熟知しているから、任せっきりで済む。もちろん最終確認をさせてもらうが、いつも夢見心地になる。ここまでチューンナップされた楽器でコケようものなら責任は100%ピアニストにある。逆を言えば、こんな楽器を本番で弾けるのなら、もはや自滅しようが玉砕しようが悔いはない。不謹慎だが 「天皇陛下万歳~ィ!!!」 の気持ちで肚をくくってステージに臨めるわけでありますね。





ピアニストにも色々な個性があるのと同様、調律師にも色々なタイプが存在する。調律師の腕次第で楽器は生きも死にもする訳で、東京近郊にもかかわらず小谷氏をコンサート会場に呼べない場合は悲惨の一語に尽きる。専属という名目でその場所のピアノに陣取っている調律師がいるためだが、私のタッチも好みも何も知らないわけだから楽器のコンディションは妙な具合いで、最悪の場合は前半のプログラムが終わらない内に調律が緩んでしまう。鍵盤(タッチ )調整もチグハグ。その場所に陣取っている調律師が居るコンサート会場は、ほとんどの場合ロクな事がない。

名前こそ挙げないが仙台市内の某レストランにあるピアノ(ベーゼンドルファー)など、調律された直後から瀕死の重傷、まさに楽器の持ち腐れである。千葉の市川にしろ舞浜にしろ、そんな楽器にぶち当たってアタマを抱えた回数は一度や二度ではない。しかも、そういう会場に限って我々演奏家のアドヴァイスに会場オーナーがまったく耳を傾けようとしないから、いよいよ楽器は末期症状となり、ハンマーはカチンカチン、行きつく先はジャランジャランピアノ。かくして が出来上がる訳でありますな。


そこの場所のオーナーがピアノを特定の調律師の言いなりに任せて占拠させ、他の調律師に触らせないような会場でマトモなピアノに出会った試しはない。





私から見た場合、小谷氏や遠藤氏のような 「 腕の立つ調律師 」 は匠の技を持つだけでなく、繊細なる音の感性や技術、さらに音に対する芸術性まで兼ね備えていなければ務まらない仕事らしい。( ・・・ このお二人、ピアノも上手いのです!)
私にとってはプロデューサーも同然であり、小谷氏や遠藤氏には必ずリハーサルで 「 音の飛び具合 」 を確認して貰う。ボクサーに例えれば優秀なるセコンド、いや、実質的な 「 監督 」 と言ってもいいだろう。リハーサル時に、客席で聴いてくれている小谷氏や遠藤氏に 「 大丈夫ですよ 」 と言われる事が、どれほど私の気持ちを楽にさせてくれる事か。





ピアノという楽器は腕の立つ調律師がメンテナンスを小まめに施せば、

(グランド/アップライトに関係なく)素晴らしいヴィンテージ楽器へと熟成して行く。それには、調律師と長く付き合って自分の弾き方(・・・や、所有楽器の個性)を理解してもらう事に尽きるのでありますね。




あるピアノの先生が

「 私は学生時代にピアノを1台弾き潰した 」 (・・・おいおい!)と物凄い事を仰っておられたが、どうやったら弾き潰せるのだろう。
学生生活を50年続けながら、毎日鍵盤の上を靴で走り回ったのだろうか。




発表会に於けるホーム&アウェイと「暗譜」の是非について……

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今年は門下発表会をやらない都合上、先月から門下生たちをあちこちの発表会やコンサートに参加させ、いわば他流試合つまりアウェイを経験させている状態なのだが、私のプロデュースした発表会 ( こちらはアウェイではなくホームね ) やコンサートとは違って、どうしても他流試合はモーレツに緊張するものらしい。





とくに、9月13日(土)と20日(土)の発表会に

特別参加させてもらったウチの門下生たちは、知らない顔・顔・顔の中でドギマギしながら自分の出番を待たなければならなかったワケで、さぞや緊張した事だったろう。これもアウェイなればこそ。 ひっひっひ。 (^皿^) ~ ♪





中でも20日の発表会。私の同業仲間の門下発表会

(於:北とぴあ/東京都北区王子)だったのだが、この会の参加条件は 「 暗譜 」 ・・・・つまり、楽譜を見ない事が参加条件。私の国内門下は2名参加させてもらったが、 「 暗譜 」 で弾ける事と 「 長くても7分以内の曲 」 の2点を遵守させた。私の企画と勝手が違う上に、自分たちは“外様”だから、いつもと顔色が違っておったなあ。





13日(於:渋谷)はジュニアも出演する

「 楽譜見てOK 」 という会だったので、暗譜に自信が無い生徒たちを参加させたが、20日のほうは全員がセミプロ以上。指導者である同業仲間がラストにバラキレフ 「 イスラメイ 」 を弾いた位だから、かなりハイレヴェルの発表会。入場料取ってもよかったんじゃないか?と言ったら、「 近・現代の曲があるから著作権に引っかかる。だから入場無料にしないと逆にアシが出かねない 」 という答えが返って来た。なるほど、とは思ったが、でも無料では勿体ないレヴェルでしたぞ。





私が昨年プロデュースした門下発表会

(於:新橋/もちろん入場無料)は、趣味のサークル生からプロまで幅広く参加させた会で、各自の自由選曲だったし暗譜を条件にしなかった。譜めくり係は私が務めたが、曲を覚えているつもりでも人間には思いがけないタイミングで 「 ド忘れ 」 する場合がある。我々プロでも有り得ないハプニングではない。だから昨年の発表会では、たとえ暗譜していてもピアノの譜面台に楽譜を置く事を奨励したほどだ。発表会参加者の半数がプロではなく“ピアノ愛好家”だったからだ。緊張ゼロという事は無理としても、愛好家には出来るかぎり楽しく伸び伸びと弾いてもらいたいからでありますね。





そもそも、ピアノのコンサートで暗譜で演奏するというトンデモナイ事を歴史上最初にやったのは、かのフランツ・リスト大先生

( Franz Liszt 1811年~1886年 ) である。それ以外にも、リスト大先生は 「 歴史上最初 」 にやった事がたくさんありましたな。



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まず、リスト大先生はそれまで統一されていなかったピアノの鍵盤幅

( 1オクターヴ ) の統一規格を提唱した。以来、リスト大先生の決めた鍵盤幅が現在でも統一規格である。指がクモ男みたいに長かったリスト大先生はともかく、私みたいに手が小さいピアニストはたまったものではない。どうしてくれるのよ。





また、それまでサロンで企画されていたピアノ・リサイタルを、大ホールで開催したのもリスト大先生である。3千人収容のパリ・オペラ座で単独ピアノ・リサイタルなど、それまでの常識からすれば完全に

狂気の沙汰である。その会場を超満員にし、当時まだ大ホールに適応した音量を出せなかったグランドピアノを舞台に何台も並べ、片っ端から弾きまくって拍手喝采だったそうだ。



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なぜピアノをステージに何台も並べてコンサートを始めたのかというと、大ホールの隅々まで届く音量など当時のピアノではどうあがいても出せないのに、リスト大先生が大音量を要求する打鍵をガンガンやるものだから、ピアノの鍵盤

( アクション ) がすぐにダメになってしまうのだ。コンサート中ゆえ修理している時間などないから、それなら最初から何台か並べちまえ・・・という訳で、ダメになったら次から次へピアノを替えて、最後の1台が潰れた時点で ( 要するに、使えるピアノが無くなり次第 ) リサイタル終了・・・・・といった具合だった。「 スープが無くなり次第終了 」 のラーメン屋みたいなお話でありますな。





このリスト大先生のピアノ・リサイタルは、かのショパンも含めて当時10指に余る名人ピアニストがひしめいていたパリにあって、堂々と果てしなく圧倒的決定的黙示録ハルマゲドン的なインパクトを誇っていた。





3千人収容のパリ・オペラ座のピアノ・リサイタルのチケットは即日完売。客席ではリスト大先生の汗が染み込んだハンカチを奪い合うオバタリアン達がK1グランプリ顔負けの殴り合いをバッチンバッチン客席通路でおっ始めるわ、アンコールを要求するオバタリアン達が狂暴化したフーリガンの暴れ狂うサッカースタジアムのようにステージ下までなだれ込んで怪我人続出だわ、ハンガリーでのピアノ・リサイタルでは、終演後でも熱狂したままのオバタリアン達の阿鼻叫喚の大乱痴気騒ぎを見物しようと、皇帝と妃が馬車でブダペスト市内を一巡したとか、常軌を逸した人気の凄まじさを物語っている。
当時のリスト大先生のサポーターの熱狂ぶりに比べたら、現代の 「 SMAP 」 や 「 嵐 」 の追っかけなど可愛いものだろう。少なくとも現代の人気アイドルユニットのコンサート会場で、死者や怪我人など出ないからである。



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さらに、リスト大先生が音楽史上最初にやった事の説明がまだひとつ、残っている。



・・・・そう。リサイタルにおける

「 暗譜演奏 」 でありますよ。ええ。





リサイタルとは性格が異なるが、楽譜を見ないで公開演奏した記録上の最初の演奏家はバッハ

( Johann Sebastian Bach 1685年~1750年 ) であると言われている。ただしバッハの場合 ( 時代 ) はピアノではなくパイプオルガンで、しかも自宅の書斎に楽譜を置き忘れるというチョンボをやらかして、取りに帰るのも面倒なので 「 どうせワシの作った曲なんだし、頭ン中に入っておるわい!楽譜なんか見んでも弾けるわ! 」 という事で、そのまま楽譜なしで演奏したというのがホントのところらしい。





しかし、リスト大先生はチョンボではなく最初から楽譜を見ないつもりでコンサート会場に手ぶらで入る。リスト大先生ご自身の曲ばかりではなく、バッハやベートーヴェンの曲も 暗譜で何曲も演奏したらしい。





これに触発されたのが女流ピアニストとして時代の最先端

( それ以前は女性のコンサート・ピアニストは存在していなかった ) だった才女クララ・シューマン ( Clara Josephine Wieck-Schumann 1819年~1896年 ) だった。当代の人気ピアニストの男女界をそれぞれ代表するフランツ・リストとクララ・シューマンがリサイタルを敢行し、あろう事か二人とも楽譜を置かずに 暗譜で演奏・・・・・・このスタイルは二人に憧れるピアニスト達がこぞって真似をし、19世紀後期には 「 ピアノ・リサイタルで楽譜を見て弾くなど論外 」 という雰囲気が確立されて行く。
モノ覚えの悪い若造やモノ忘れのひどくなったご老体ピアニストはコンサート業界から閉め出され、コンサート・ピアニストは当時最もクリエイティブな要素を求められる職業になってしまった。



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フランツ・リスト ( 1811年~1886年 )。 コンサート・ピアニストの開祖ともいうべきか。



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クララ・シューマン ( 1819年~1896年 )。 女流コンサート・ピアニストの草分け。



リスト大先生がおっ始め、クララ・シューマンが追随した 「 暗譜演奏スタイル 」 の弊害はすぐに現れた。演奏技術は確かだが記憶力に自信のなくなったヴェテラン・ピアニスト達が公開演奏をしなくなり、音楽院などで教鞭をとる事に専念するようになる。そうなれば、コンサート・ピアニストと指導者ピアニスト ( 現代では“ペダゴグ・プレーヤー”とか言われている ) との間に微妙な距離感というか確執みたいな気配が生まれて来る。そして遂に 「 そんなにコンサートで暗譜にこだわるなら、学校の入学試験や実技試験も暗譜にしてやれ 」 とばかりに音楽院内の全てのピアノ実技試験が暗譜とされてしまう。
そうなるずっと以前、まだ19世紀初頭から中頃にかけてパリ音楽院のピアノ科主任教授だったジンメルマン
( Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann 1785年~1853年 ) は、生徒に 「 試験の時は落ち着いて楽譜の最初をしっかり見てから演奏を始めなさい 」 とアドヴァイスしているから、まだその頃のパリ音楽院ではピアノの実技試験で楽譜を見てもOKだった事が伺える。





現代では、旧ソ連時代を代表する大ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル

( Святослав Теофилович Рихтер 1915年~1997年 ) 「 暗譜で弾く事が怖くなった 」 とキャリアの晩年に宣言して以来すべてのコンサートで譜面台に楽譜を置いて演奏していた。リヒテルのコンサート・チケットは世界のどこでもプラチナペーパーで入手するのが容易ではなかったが、キャリアの最晩年はよく来日してくれたお陰で、楽譜を見ながらのリヒテルの熟練のピアニズムを味わう事が出来た。暗譜で弾く事が怖くなった・・・と宣言した割りには、譜面台に置いた楽譜をまったく見ずに弾いていたが。





記憶に新しいところでは、1985年のショパン国際コンクール入賞者であるジャン=マルク・ルイサダ

( Jean-Marc Luisada 1958年~ ) が数年前に来日公演をした際、私が聴きに行った保谷こもれびホール ( 西東京市 ) で全ショパン・プログラムを楽譜を見て演奏していてビックリした事がある。
ルイサダほどのショパン弾きならば、ショパンの全作品など眠っていても弾けるくらい身体に染み付いているはずである。しかし、ルイサダは譜面台を立ててシッカリと楽譜を置き、ご丁寧にも 「 譜めくり 」 の青年を傍らにスタンバイさせて演奏した。ところが、ルイサダはまったく楽譜を見ようとしない。 「 ・・・・じゃあ何でわざわざ楽譜なんか置くんだよ? 」 と私は思ったが、その理由は後にわかった。ルイサダの 「 譜めくり 」 として傍らに座っていた青年
( ルイサダ門下 ) に舞台度胸をつけさせるためだったのだ。





似たような事は私も門下生にやらせた事があるから良くわかるが、ガラスの心臓の生徒にステージ経験を積ませて度胸をつけさせるには 「 譜めくり 」 が手っとり早いのだ。何と言っても 「 譜めくり 」 係であれば、どうあがいても演奏で失敗しようがないからである。





私自身は同じ曲を人前で弾く時、暗譜の時とそうでない時がある。ピアノの譜面台に楽譜を置く時は、楽譜の余白に書いてある 「 次のマイク・トークのネタ 」 を見たい時である。私はマイクで喋りながらコンサートを敢行するので、コンサートの時間配分に気を配らなくてはならない。曲を覚えるより、ネタを含めたトーク内容を覚えるほうがはるかにタイヘンなのだ。コンサートの前半45分・・・と決めたら、演奏&トークで誤差1分以内に収めなければならない。演奏とは別種の神経を遣わなければならないのだ。マイクを置いて椅子に座ったら、3秒以内で演奏モードに突入していなければならないし、どんなに激しい曲を弾いても、直後のマイク・トークでは呼吸を乱さずにまるで 「 第三者 」 のようにケロっとして喋らなくてはならないのでありますね。





何も喋らずに、ただ暗譜 でズラズラ~っと弾くだけなら、こんなに楽な事はない。しかしそんなコンサートスタイルでは、一世(issei)らしくなくなってしまうのだ。マイクを使わずにオーソドックスにコンサートをやった時は 「 どこか体調でもお悪いのですか 」 と関係者に変な心配をされて閉口したものだ。





長々と 「 暗譜 」 についてノタマったが、私が言いたい事はただひとつ。私の門下生には楽譜を置いて弾く事に罪悪感を持ちなさんな・・・・と言っているのだ。さもないと

「 暗譜でソツなく演奏する事 」 が第1目的になってしまい、音楽表現が二の次になってツマラナイ演奏になってしまうからだ。





20日の発表会に特別参加させてもらった私の門下2人は、一世(issei)プロデュースの発表会や本番がいかに気楽に弾けるか分かったと思う。13日の発表会に参加させてもらった別の生徒たちも、暗譜で演奏した主催者門下たちの演奏スタイルを見て、何を思っただろう。凄い・・・・と思う反面、楽譜を見ながら伸び伸び弾かせてもらえる事がいかに恵まれているかが分かったのではないか。やっぱりアウェイを経験させる事は大切なのである。





11月には、今年唯一の一世(issei)プロデュースのピアノ発表会が仙台で開催される。仙台のピアノサークル生や個人レッスン生を軒並み出演させる発表会だが、選曲は自分自身、楽譜見て弾いてOKの伸び伸びした発表会であり、私は

よろず世話人@ というステージネームで裏方をやる。会場は仙台市青年文化センターのコンサートホール。パリ・オペラ座の3千人には及ばないまでも、800人収容の大ホールだ。ここでスタインウェイのコンサート・グランドピアノを使い、凄腕調律師の遠藤信和氏の調律によって行われるピアノ発表会 ( 入場無料 ) である。参加メンバーに、いかに伸び伸びと楽しく弾いてもらうか・・・・というのが私の毎年のプランである。これも東京よりホール代が多少安いからこそ出来る企画ではありますが。





メンバー同士もお互いよく知っているから、その点でも気楽に参加出来るようだ。





それに比べたら、今年の東京組はアウェイばかりだからキツいかも知れない。それでも、良い経験となって演奏曲を確実に自分のレパートリーとして身体に染み込ませるのは、ホームではなくアウェイなればこそ。可愛い我が子には旅をさせろ、と同じ。





「 可愛い生徒はアウェイで泣かせろ 」





(^皿^)  う~む、けだし名言ではないか。 ほ~~~っほっほっほ。



「野菜食い」の話

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葉もの野菜が無いと居られない性分に加えて、食い物に関しては欲の皮が突っ張っているためだろうか、 「 野菜の2次栽培 」 を必ずやっている。もっとも、実践しているのは私一人で、家内と娘は食べるだけだ。





食事に関しては、演奏旅行等で留守にしている時以外は

「 薬膳 」 を兼ねて私自身が料理している。一家全員の健康管理が掛かっているからだ。





人参を料理した時、ヘタの部分を水につけておく。3日目あたりから人参の芽が出て10日くらいで10センチほどに成長する。食べ頃である。私はこの人参の二次芽が大好きで、こうして育ててから生食している。水耕栽培だが無農薬であり、こんなに安全な事はない。人参そのものも有機モノを食べているが、葉までついている人参は普通はなかなか見掛けないだろう。人参の葉のゴマ合え、人参の葉の天ぷら、とても美味である。葉が若い場合は生野菜の扱いだ。その場合はドレッシングを使わずに生食する。人参の風味がまことに嬉しい。


さらに良い方法は、ある程度二次芽が伸びたらヘタごと土に埋める事だ。二次芽の味はさらに人参の旨味を濃くする。野菜スティックで人参は欠かせないが、人参の二次芽をアイテムに加えると極楽である。ちなみに私は野菜スティックを食べる時は何もつけない。ロックアイスに刺したスティックはそのままで美味。余計なディップをつけると野菜の味が邪魔されてしまう。





人参に限らず、根菜類は地上部分(葉)が旨い。私が時々作るカブの浅漬けは、カブを水洗いして皮ごと5ミリ厚にスライスして塩をふり、30分放置してから滲み出た水分を切り、オカカ醤油もしくはわさび醤油で食べるのだが、カブ本体だけではなく葉もすべて使っている。水洗いして5センチほどに切り、塩揉みしてカブ本体に混ぜておくだけ。カブは棄てる部分はない。





大根もカブと同じく葉が旨い根菜だが、私は大根の皮を剥かずに調理する。大根オロシ、サラダ、煮物、けんちん汁、大根とツナのカレー、様々に大活躍の根菜だが、

私が例外的に大根の皮を剥く時は 「 皮そのものを食べたい時 」 である。大根の旨味はゴボウと同じく皮にある。剥いた大根の皮を塩揉みしてユズやカボスで風味をつけるだけ。これだけで絶妙な酒肴になる。





長葱 ( ながねぎ ) は濃緑色の部分まで全部使えるが、特に 「 根 」 は重要だ。長葱を使う時は3分の1ずつに切ってジプロックに入れて冷蔵庫の野菜室に入れておくが、この時 「 根 」 もつけておく。そうすれば 「 根 」 がある部位は劣化が遅くなる。まあ、劣化するほど長く野菜室に居る事はないが、最終的には白身の部分を3センチほど残し、土に刺しておく。だいたい2週間ほどで元の長の70%くらいまで二次ネギが伸びて来る。ポイントは、腐葉土などを混ぜた栄養価の高い土を使う事だ。伸びる速度や味に差が出て来る。

( 長葱の二次栽培は、やっている人は多いかも知れない )





14年前に末期癌で胃と脾臓を全摘して以来、私は全ての哺乳動物の肉 ( 牛・豚・羊・鯨・馬 etc ) および、乳製品 ( 牛乳・バター・チーズ・ヨーグルト ) を身体が一切受け付けなくなった人間だが、これは 「 オマエの身体にはもう食物ではなく“毒物”だぞ 」 というシグナルなのだ。肉類や乳製品を僅かでも誤食したが最後、私は七転八倒の苦しみを味わう事になる。食べるだけではない、焼肉屋の前を通りかかるだけで腸が反応する事がある。肉の焼ける臭気は肉の 「 微粒子 」 であり、それを吸い込む事は摂取と同じ事である。肉料理の写真を見ただけでは身体は反応しないが、臭気はテキメンに身体に来る。だいたい、肉料理を見ても食べ物とは思わない。テレビ等のリモコンを見ても食べ物だと思
わないのと同じ感覚だ。肉類や乳製品を身体の拒否反応に逆らって ( あるいは拒否反応だと気づかずに ) 食べ続けるから癌が再発するのだと思う。


そもそも、生き物は共食いするとロクな事がないようにDNAが設定されている。牛・豚・鯨などは人間と同じく哺乳類で、共食いと同じ意味を持つのだろう。鶏肉は哺乳類ではなく鳥類だから、身体に来る拒否反応が牛や豚より遅い。ただ、不思議な事に卵は食べられる。





胃を全摘すると、味覚は赤ん坊のようにリセットされる。食べ物の嗜好も当然変わる。現代風に云うと 「 初期設定 」 に戻る感じだろうか。まず、生野菜に余計な味をつけたくなくなる。そして身体が生野菜を無性に欲しがるようになる。





2001年10月の半ばに退院して、流動食から半固形食になった翌年1月頃、突然身体が生の

パセリ を無性に食べたくなり、早速買って来るなり水洗いしただけで味もつけずに1束むさぼり食ってしまった。以来、パセリ ( セロリ ) ~クレソン~ルッコラ という流れで生野菜を食べまくっている。トマト キュウリ は1年中食べているが、トマト は主食同然。1日に4~5玉は食べている。殊に、私の自宅マンションの前にある無農薬有機栽培の農園で、旬に入手する 「 樹上完熟トマト 」 は感動的な旨さである。
ちなみに、一般的に出回る
トマト はまだ青いうちに収穫して店頭に並ぶ頃に赤くなるのだが、リコピンというポリフェノールはまだ青いうちに収穫したトマト がいくら赤くなっても含有されない。樹上で赤くなった トマト にのみ含まれるそうである。





蛋白質は魚介類と豆類に頼るわけだが、後は野菜食が基本である。肉食が出来なくてもそれらしいものは全て自分で作れるから困る事はない。例えば、カツが食べたければ、カジキマグロでカツを揚げるとヒレカツのようになる。大量のキャベツとともにパンに挟んでカツサンドにするなり、カツ丼に応用したり、色々と役に立つ。
カジキマグロはなかなかのスグレモノで、塩をふって日本酒をかけて電子レンジで5分加熱したあと氷水に放して軽くほぐしたものを棒棒鶏に使うと、鳥モモ肉より旨い。





パスタの 「 ミートソース 」 も、中華まんの具材も、肉ジャガも、全て肉抜きで作る事が出来る。乳製品不使用のグラタンもクリームシチューも簡単だ。詳しいレシピはまたの機会にアップするけれど、肉類や乳製品を食材に使えなくて困った事など一度もないし、値段の高いマクロビオティックのレストランに行く必要もない。





だから私にとっては肉類より野菜が食べられないほうが困る。肉類の代替品はどうにでもなるが、野菜の代替品は存在しないからだ。





入院前に調べたところ、

癌は血液の汚れが原因のひとつだという。肉食・乳製品摂取は血液を汚す大きな要因になるので、日本民族は“ 歯並び”から考えた場合、食材としての肉類の割合は 「 食事の総重量の7分の1 」 以下であれば何とかなる。つまり、健常者ならば例えば 「 肉野菜炒め定食/スープ付き 」 などを食べている分には癌のリスクはそう上がるものではない。焼肉屋やステーキハウスとかで、肉に始まって肉で終る食べ方をしていたら血液は汚れに汚れ、癌のリスクはどんどん上がるという。ならば、癌を予防したり消したりしたければ、血液を“浄血”する事なのだ。





日本人はもともと農耕民族のDNAであり、たまに狩りに出ても週に1度くらいしか獲物を得られなかった。それが歯並び(犬歯・小臼歯・大臼歯の割合)に現れている。基本的には菜食主体で、あとは少々の魚介類、7日に1回食べられるかどうかという獣肉類・・・これが昔からの日本民族の食事だった。小腸も8メートル。肉食主体の欧米人が約5メートルしかないのは、人体に有害な肉食をせざるを得ない環境条件に住んでいるから、一刻も早く栄養を吸収して体外に排出してしまうためらしい。欧米人より小腸が約3メートルも長い日本人が欧米型の肉食を続けたらどうなるか。・・・・考えるまでもないだろう。





それでも、肉食・乳製品摂取の害を何とか阻害する最後の“砦”が 「 胃袋 」 だ。私にはもうこの“砦”が無い。だから肉類や乳製品を身体がダイレクトに拒絶するのだ。胃の無い人間にとって、肉類も乳製品も 「劇物 」 だ。それを摂取しなくなって野菜主体食にして以来血液が汚れなくなったためだろうか、退院以来一度も風邪をひいていない。よく、「 私は風邪ひくのをやめた 」 と言うが、相手は単なるジョークとして受け取っている。ジョークではない。風邪ひくのをやめる事は、癌をやめる事と同じなのだ。つまり、野菜や根菜を中心にして魚介類・発芽玄米や雑穀類・古式醸造醤油や味噌などの醗酵食品、納豆、漬物・・・つまり日本古来の薬膳食を実践している限り、たとえ末期癌と診断されてもオロオロする事はない。最も愚かなのは、癌を死病だと自分で決めてかかる事だろう。





人間は“病気”で死ぬのではなく、寿命が尽きた時に死ぬ。




寿命が尽きていなければ私のように白血病や末期癌になっても死ぬ事はないし、「 どう対処すればよいか 」 の手掛かりも助け舟も必ず得られるものだ。そういうヒントを持っている人と縁あって出会う事もある。寿命が尽きていない・・・という事は、そういう事だ。


逆に、寿命が尽きてしまった人間は、石につまづいて転んだだけで死ぬ。クシャミしただけで死ぬ。就寝したらそのまま翌朝には死亡していたりする。どうあがいても死からは逃れる事は出来ない。




寿命が尽きて ( 顔に死相が出て ) さえいなければ、末期癌からも生還出来る。


現在何らかの闘病生活をしていて、ひょんなタイミングでこの文章を目にした方々は、まだまだ寿命が尽きていない証拠 ・・・・だと私は思う。まあ、眉に唾つけて読むのはその人の勝手であるけれども。





当ブログにアメンバー申請をされたブロガー様へ

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私のところにアメンバー申請をされたブロガー様、誰だか分からないとアメンバー承認できません。お手数ですが、どちら様なのかメッセージを下さいませ。




メッセージを頂けない場合は、アメンバー申請を拒否せざるを得ません。メッセージを宜しくお願い致します。




一世(issei)




絶対音感の是非について

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音叉.jpg



絶対音感を手っ取り早く説明すると・・・・・・・・




聴いた音を、音階 ( ドレミファソラシ ) 的に瞬時に判別出来る感覚




・・・・・・となります。




例えば、車のクラクションを聞いて 「 ・・・あ、今の音は#ファだ! 」 と判る事です。




・・・このタイミングで言わせてもらえば

「 だから何なんだ? 」 と私は思います。音が判ったから実生活の役に立つわけじゃないので。
( ・・・あ、絶対音感をお持ちの方々、怒らないで下さいね!取り敢えず全部読んでから・・・ね。)





困るのは、一部の日本人の間で 「 絶対音感は天才へのパスポート 」 とか、
「 絶対音感が無ければプロの音楽家になれない 」 とかの
勘違いをされている事なんです。ハッキリ言って 『 迷信 』 です。
( ・・・あ、絶対音感をお持ちの方々、まだここで怒らないで下さいね!取り敢えずもうちょっと読んで頂いてから・・・ね。スミマセンねぇ。)





絶対音感を持たないプロの音楽家なんて、世界中に掃いて捨てる程存在します。アメリカの名指揮者レナード・バーンスタイン ( Bernstein,Leonard 1918年~1990年/ウェストサイド・ストーリーの作曲者としても有名 ) も居ます。





逆に、幼児音感教育で絶対音感を身につけたのにプロの音楽家になれずに終わった人も大勢存在します。なまじ絶対音感が身についちゃったために、結果的に音楽家を断念した知人も居るほどです。
最初はプロの演奏家を目指した

( 親が目指させた? ) んでしょうが、そう順調に行くとは限らないのがこの世界なのでありますな。





絶対音感に関しては、あっても無くても演奏家にはあまり関係ありません。「 あって便利 」 だと思う人、「 便利かどうか意識した事もない 」 という人、「 別になくても不自由しない 」 という人、「 身につけられるなら身につけたかった 」 という人…いろいろいらっしゃるでしょう。
私自身は

「 そんな事ァ、別にどーでもいい 」 というスタンスですな。





以上のようなオハナシをすると、決まって

『 アンタは自分に絶対音感が無いから、ヤッカミでそう言ってるんじゃないの? 』 と薄笑いを浮かべながら言う人が必ず居ます。 ( その人は絶対音感を持ってる事が自慢らしいのでしょう。絶対音感が無い人なら、よっぽど他人から村八分にされるようなネジ曲がった性格をしていない限り、普通そういうツッコミはしないものですから・・・・笑 )





本当なら 「 そうなんですよ~。ボクには絶対音感がないんですよ~ 」 と悔しがってあげたらそのヒトの溜飲を下げてあげられるんでしょうが、残念ながら私には絶対音感が身についてしまっています。それも頗る付き・・・・という精緻なレヴェルです。





楽器店とかで売られている音叉

( おんさ ) が、例えばピッチ ( Pitch /1秒間の音波振動数 ) 442 と表示されていても、ピッチが 442 ピッタリな事はほとんど無い・・・・という事が判るレヴェルです。自然音やホワイトノイズがどんな音で構成されているかも、微分音単位でほぼ判ります。





ドの♯

( シャープ/半音上 ) と、レの♭ ( フラット/半音下 ) は、鍵盤上では同じ音を指します ( 異名同音/エンハーモニック ) が、実際には微妙に異なった音です。ドとレの間を9分割し、♯とは9分の5上がった音、♭は9分の5下がった音 ( これですらも大まかな区分なんですが ) ・・・となります。半音ではないのです。




・・・ド♯とレ♭は実際には違う音なんですよ~、と私にご親切に教えて下さる方々も多いんですが、こちとらは先刻ご承知。「 なるほどねぇ、そぉなんですか、知らなかったなぁ 」 と感嘆して差し上げようものなら得意満面で喋る喋る・・・・面白いからそのまま聞いていますけど。( 苦笑 )


ただ、その人はド♯とレ♭の違いを厳密に聞き分けている訳ではない場合が多いんです。もしくは聞き分けた 「 つもり 」 になっていらっしゃるか、単なる基礎知識だけで言っているのか、それはこちらの知った事じゃありませんけど。





また

『 絶対音感なんて要らないんだよ! 』 とケンカ腰で突っかかって来る連中に対して最初に言っておきますが、今回の拙文は絶対音感を肯定する内容ではありませんし、ましてや自分の絶対音感を自慢する内容でもありません。突っかかって来る否定派の連中は 『 内心では絶対音感に猛烈な羨望を持っている人種 』 でしょうから(笑)。





例えば私の場合、絶対音感が邪魔になる事が度々あります。





オーケストラを聴きに行った時は

( 精神的コンディションの度合いにもよりますが ) 正直かなりイライラします。演奏の出来不出来ではありません。聞こえて来る音のピッチそのもののズレが気になるのです。





オーケストラには様々な楽器が存在しています。

( カッコ内の人数はざっくばらんですが、だいたいこんなものだと考えて下さい。私の数値が信用出来ない場合は、どこぞのオーケストラのDVDをストップモーションにしてカウントして下さい。)



ヴァイオリン(15人以上)、ヴィオラ(10人前後)、チェロ(5~6人前後)、コントラバス(2~3人前後)、ハープ(1人)等の弦楽器


トランペット、トロンボーン、ホルン、テューバ等の金管属と、ピッコロ、フルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット等の木管属 ティンパニ、パーカッション、シンバル、カスタネット、トライアングル等の打楽器属・・・・



・・・・これらの集合体がオーケストラな訳です。ところが、絶対音感があると、その楽器1つ1つの微妙なピッチの違いが判ってしまうので、調和して聞こえて来る事はほとんどありません。身についた絶対音感が精緻であればある程、その傾向は強くなります。

遠目で見る分には判らない美女のアバタや毛穴が100メートル先から見えてしまうようなもので、まさしく 『 夢も希望もない 』 世界です。





ですから、私がオーケストラを聴きに行くと、聴覚を

ピンボケ状態にしないと腹が立って来ます。ピアノ協奏曲になるとさらに大変。さまざまなピッチが混在するオーケストラの真っ只中でピアノを弾かなきゃなりませんから、考えようによっては地獄です。
オーケストラは純正律に近い響きになりますが、ピアノという楽器は12平均律
( 1オクターブを12分割し、それぞれを半音と定めたもの。自然界には有り得ない音律だが、どの調性も平均的に演奏できる利点をもつ ) で調律されていますから、純正律のオーケストラと合わせると微妙にチグハグに聞こえてしまうのです。





・・・・例えば、ソチ冬季五輪大会でフィギュアスケートのBGMにも使われて話題となった、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調。





冒頭はピアノが単独で和音と低音F ( ファ ) を交互に序奏し、やがて波のうねりの様なハ短調のアルペッジョに入ると、弦楽器セクションが一斉に 「 ド~~~レ♪ ド~~~レ♪ 」 と演奏します。 私には一般群集

( ※ 歌手達ではありませんよ!)が 「 ど~~~れ!ど~~~れ! 」 と地声で斉唱しているように聞こえます。
その群集の斉唱にピアノ伴奏部分がついていて、私がそれを伴奏している感覚ですね。
弦楽器セクションでは絶対音感を持っている人は平均律的に、持っていない人は純正律的に弾いていますから、同じ 「 ド~~~レ、ド~~~レ 」 でも微妙な響きになります。





絶対音感といっても最初の音感訓練にはピアノを使いますが、その人が受けた訓練に使用されたピアノの 『 調律具合 』 で当然ながら絶対音感にも個人差が出て来ます。…極端に言えば、調律が行き届いていないズタボロピアノで音感訓練を受けて絶対音感が身に付いた

つもりでいる人 も存在するのです。



弦楽器セクションの中にはもちろん絶対音感の訓練を受けずにプロになった方々もいます。そこにさまざまな条件で絶対音感を身につけた方々が加わり、絶対音感の付き方に

夥しい個人差を見せつけながら ヒトカタマリになって、せっかく私が気持ちよくピアノを弾いているのに 「 ド~~~レ!ド~~~レ! 」 と横槍を入れる図式………これが私 ( ピアノ独奏者 ) から見たラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番の冒頭部分なのでありますよ。


しかも、その横槍の斉唱がメインのメロディと来ていますから、たまったもんじゃありません。ええ。





私がピアノ協奏曲をオーケストラとではなくピアノ・デュオ

( 2台のピアノで、ピアノソロパートとオーケストラパートをそれぞれ受け持つ ) で演奏するのは、12平均律の楽器 ( ピアノ ) 同士ですから何とか調和して聞こえるからです。 楽器と言っても全て個性が違いますから同一の調律師が同じPitchで調律しても完全調和とは行きませんが、オーケストラと共演 ( 散々やりましたけど ) するより、まだマシだからです。





私の絶対音感が何故精緻かと言いますと、気鋭の若手調律師さん達が

毎日のように練習調律していたピアノで毎日音感訓練を受けたから …ただそれだけの理由です。私が小学1年から中学生まで内弟子として御世話になった幼児教育家の先生のご主人、日本調律師協会会長を経験した田中信男氏でしたから。私のほかに住み込みの若手調律師が何人も居ましたからね。そういう環境に育ちましたから、音感だけじゃなく調律師の良し悪しもピアノの内部機能も分かります。当然、調律師の優劣もだいたい判ります。





では絶対音感を持っていて得する事ってあるのでしょうか・・・・。





音楽大学の入試にある 「 聴音 」 に多少役立つ、という説があります。聴音とは、ピアノ等で演奏されたメロディを楽譜に書き取る試験です。自分の感覚の中に 『 基準になる音 』 がないとその音がドだかミだか一般感覚ではわかりませんが、絶対音感があると全てドレミファソラシのどれかで聞こえますから多少は有利になる・・・・という事ですね。





ただし、聴音が出来ても素晴らしい音楽を演奏したり創造したりする能力とは何の関係もありません。まさしく、音楽大学入試の為だけの馬鹿馬鹿しい科目だと私は思っていますけれど。

( ちなみに、絶対音感が身についていない人でコンピュータのように聴音が出来る人も居ます。)





私の場合、一番役に立っているのはスイカ ( 果物 ) の選別でしょうか。 指先でコンコン叩くだけで、どのスイカが一番甘いのかわかります。
以前、同窓会で5個のスイカを指先で叩き、甘い順番に並べてからカットして皆に試食して貰った事がありましたが、約50人全員が食べ比べて驚いていましたから、多分「正解」だったのでしょう(笑)。
・・・・以前、どこかにこの話を書いたら、スイカの糖度(甘味)を音で判断するテストに出て欲しいと 「 めざましTV 」 から問い合わせが来た事がありました。もちろん無視しました。見世物ではありませんし、このTV局には以前 「 無礼千万 」 な仕打ちをされて、局のビルに火ィ付けてやりたいと今でも本気で思っているほどキライなんですから。





スイカの甘味判別が音楽と何の関係も無い事は・・・・考えるまでもありませんよね。しかし、絶対音感のおかげで夏には甘いスイカにありつける訳であります。スイカの鑑定士としては自分自身 「 天才 」 だと思います(笑)。甘さだけではなく、中身が割れているか、少し空洞(隙)が入っているか・・・・まで判ります。





私は絶対音感を別に完全否定する気はありませんが、



もし自分から外せるものなら外したい


・・・・というのが私自身の本音なんです。絶対音感は私に云わせれば 聴覚異常過敏症という一種の病気 みたいなものです。そんな病名はありませんが、是非医学界でご検討頂きたいものでありますね。




幼児の頃からピアノなどの楽器の音を聴いて育っていると、わざわざ音感訓練など受けなくてもそれなりの音感は自然に身につきます。

( 昔の日本人に西洋音楽的な音感の持ち主が少なかったのは、当時ピアノを始めとする西洋楽器が少なく、幼児の耳に楽器の音が入る確率が低かっただけの話かも知れません。)





絶対音感があると楽譜を見て頭の中で音をシミュレート出来るといいますが、絶対音感がなくても出来る人も居ますから、一概に便利とも言い切れませんよ。





また、私が考える・・・・絶対音感を持っていて有利

( ※ 便利とは違いますよ)な事は、絶対音感は音楽家に必要不可欠な能力ではない・・・・と 『 発言 』 出来る資格・・・・でしょうか。





だって、

絶対音感をムキになって否定している連中の意見をハタから聞いていると 「 持たざる者のヤッカミ 」 だけでモノを言ってますから、説得力に乏しい んです。絶対音感を持っている人間の悩みは、絶対音感を持った人じゃないと理解出来っこないんです。ヒガミ根性で否定しても説得力に欠ける訳ですな。





それでも 「 ウチの子に絶対音感をつけて欲しい 」 と考える人に敢えて申し上げますが、絶対音感の訓練が終わったら、さらに移調や移動ド唱法を含めた相対音感訓練を徹底的に受ける事です。絶対音感訓練も相対音感訓練もバランスよく経験してこそ初めて役に立ちます。

( もちろん秀れた音楽家になれるという保証なんてありませんが )





ただし、「 ウチの子は絶対音感があるんです 」 と他人に自慢したいがために子供に絶対音感訓練を受けさせるなら、お止めになったほうがよろしい。


むしろ

『 レッスン時間を守る/言葉遣いや礼儀作法/指導者のレッスン室の物をやたらにベタベタ触らせない/真っ当な身だしなみ/家で最低限の練習ぐらいはさせる 』 事をきっちり躾けるほうが大切ですし、はるかにその子のためになると思いますよ。





ついでに、自分の子供のピアノの先生をもっと尊敬するべきでしょうね。ピアノ教室の先生はみんな専門的トレーニングを積んで来たプロなんですから。絶対音感にステイタスを感じて追い求めるのは勝手ですが、その前に「自分の子供の先生に対等な口調で会話しない」事・・・・要するに礼儀作法をまず心掛けたほうが良さそうですね。

(巷の音楽教室じゃ、そんな親の話ばかり耳にします。困ったもんです。)





幼少時代に 「 神童 」 と言われ、学歴 ( 留学歴 ) &コンクール入賞歴&絶対音感……と三拍子揃っていてプロの音楽家にならなかった方々は世界にたくさん存在しています。かと言えば、ポーランドの生んだパデレフスキーのように真逆の場合もあります。
まさに人生いろいろ……というところですかね。





私の知人に、化粧品開発の研究所に勤務するプロの調香師が居ます。彼はカレーライスをひと嗅ぎしただけで、クミン・ナツメッグ・チョウジ・カルダモン・ターメリック・ショウガ・マジョラムその他全ての香辛料の配合比率をコンピュータの様に正確無比に当ててしまいます。凄い嗅覚だと背筋が寒くなりますが、全ての香辛料を独立して感知してしまうため、カレーライスそのものを楽しむ事は出来ないそうです。おまけに他人の体臭が気になって電車にもバスにも乗れず、今もって独身貴族です。

「 この仕事を引退しても嗅覚が無くなる訳じゃないんだよね 」 と自嘲気味に話していて気の毒になります。そして、これほどの嗅覚がありながら、料理どころか玉子焼きひとつ焼けません。





・・・・上の話を、嗅覚を絶対音感に/カレーライスをオーケストラに/香辛料をピッチ ( Pitch ) に/調香師を演奏家に/料理を演奏に・・・・置き換えてみて下さい。





私が言いたい事がおわかり頂けますでしょうか。




お宝再発見!今、元気な”むら”の取組-政府ネットTV: PR

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ディスカバー農山漁村(むら)の宝!日本の「お宝」を再発見し、広める取組をご紹介。

伊吹いりこ

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讃岐うどんの出汁に欠かせないのが瀬戸内海産「伊吹いりこ」なのだ。そろそろ底をつくから、また取り寄せないといかん。うどんの美味しい季節到来だなあ。



納豆譚

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最初に申し上げると、今回のテーマは納豆である。苦手な方は読まないほうが賢明である。






もう20年前の話になってしまうが、留学先のモスクワから精根尽き果て、ボロボロのヨレヨレのパッサパサになって帰国した1994年の事だった。
帰国した直後の私は廃人同然。病院やら何やら身体のケアが先決で最初の1ヶ月は見事に何も出来なかったが、心配して見舞いに来てくれた知人が

「 面白いTV番組を録画してあるからリハビリのお供に・・・ 」 とビデオを差し入れてくれた。その年の春からスタートしたらしいTV番組 『 料理の鉄人 』 だった。パッケージの手書きメモを見ると、6月3日/納豆対決/挑戦者・石川邦行vs和の鉄人・道場六三郎 ( 和食研究会師範対決 ) とあった。


再生してみると、

「 ワタシの記憶が確かならば・・・ 」 の前口上とともにキッチンスタジアムに登場した司会・鹿賀丈史が、モノモノしいBGMとともに3人の“鉄人”を登場させ、その中から挑戦者が中央の道場六三郎“鉄人”を指名。
ややあって、加賀丈史が 「 今日のテーマは、コレです! 」 と宣言するやいなや、ありとあらゆる納豆が大げさなBGMとともに加賀の前にせり上がって来た。そして、例のあの調子で



『 ・・・今日のテーマは、納豆ォ~~~~~~ッ!!! 』



・・・と叫んで両手ネバネバのジェスチャーをし、料理対決が始まる。




何だァよォ、こりゃあよォ ・・・・と笑いながら見ているうちに、キッチンスタジアムで2人の料理人がそれぞれの助手とともに納豆料理を作り始める。制限時間は1時間。時折レポーターが何かあるたびに調理現場から実況アナウンサーに 「 ・・・福井サぁン! 」 と叫ぶ。アナウンサーの隣では料理研究家が専門用語を交えながら解説をする・・・。“鉄人”も挑戦者も真剣そのものである。




いやはや、たかが納豆に何とも大仰な・・・・と思いつつ、ふと道場鉄人の製作する最後の

「 納豆煎餅 」 に目が行った。思わずこれには試食欲がわいた。人間は体調が絶不調でも好物の味はイメージ出来るらしい。納豆もプロの手にかかると食欲をそそる一品料理に変化するという訳である。





私は胃を全摘した2001年夏以降、肉

( 牛・豚・鯨・鳥などの全ての獣肉類 ) と、乳製品 ( 牛や山羊などの動物乳・バター・チーズ・ヨーグルトなど ) が一切食べられなくなった。身体が受け付けないのだ。焼肉屋の前を通るだけで、漂って来る臭気でたちまち腹が痛くなった。タバコの煙に加えて焼き肉の煙もダメになったという訳だった。


牛乳やヨーグルトも2001年以降、私の身体には飲物ではなく劇物となった。最初はこの事に気づかず、退院直後にホットミルクやビーフコンソメを一口飲んでは七転八倒・・・という壮絶な試行錯誤が続いた。ちなみに私の大好物だったトロロ芋やオクラのネバネバも、胃液が出ないために加熱しないと消化が出来ない・・・・という事が判った時はかなりのショックだった。





そういう身体になってしまった私にとって、魚介類や豆類

( 植物性タンパク ) は貴重なタンパク源となった。特に納豆には大変お世話になっているし私の大好物である。納豆と海草系のネバネバは私の身体に適応してくれていたのだ。肉類や乳製品が一生食べられないのは何ともないが、納豆が食べられない事だけは絶対に耐えられない。納豆が大丈夫だと判った時の感激は私にしか判らないだろう。それよりも、納豆まで身体が受け付けなかったら、おそらく私は深刻な蛋白質不足に悩んでいたに違いないのだ。





話は前後するが、1993年から94年にかけて米不足

( ・・・・と言っても本当に不足したのではなく、食糧庁のチョンボだったらしいが ) が日本を襲った。
これが江戸時代だったら 「 米騒動 」 や 「 百姓一揆 」 モノだろうが、この時には細川首相
( 当時 ) が米輸入解禁に踏み切って賛否両論になったらしい。
「 ・・・・らしい 」 と言ったのは、私がその時モスクワ留学中で、リアルタイムに事の次第を知らなかったからでありますね。家内から国際電話で日本のコメ事情を聞き
「 ・・・・あぁ?米不足だぁ!? 」 と驚いた記憶がある。留学先のモスクワ音楽院からさほど遠くない日本大使館に立ち寄って 「 ん~~、どれどれ? 」 と新聞を見ると、確かに深刻な米不足であり、タイ米を日本米と抱き合わせで売っているとかの記事が社会面に載っていてびっくりした。





その時私が留学先で何を食べていたか白状すると、ご多分に洩れず

『 納豆ご飯 』 だったのだ。 事前に日本から送っておいた納豆 ( 乾燥状態で、湯や水をふりかけてしばらく置くと納豆が復元されるというスグレモノ。ハナマルキで発売されている ) に、刻みネギや大根おろし ( 輸入品専門のドルショップで大根が入手出来た ) 、そしてこれも日本から持ち込んだ 「 青のり 」 や 「 粉末ワサビ 」 を混ぜて掻き回し、ドルショップで入手した醤油 ( Made in Japan ) で味を調えたものを、現地米 ( 留学早々に確保していた購入ルートで入手したアルメニア米。タイ米のような長粒種ではなく、日本米よりやや小粒の短粒種 ) を炊いたご飯にかけ、フリーズドライの味噌汁と玉子焼きと共にワシワシと頂いていたものだ。





納豆は昔から大好きで、日本ソバやソーメンのツユに混ぜ込んだり、刻みネギやキムチとともにチャーハンの具材にしたり、ささがきゴボウと一緒に味噌汁の具にしたり、ツナと混ぜてオムレツにしたり、油揚げの中に詰めてオーブンで焼いて大根おろしとそばツユにつけたり、餅にからめたり、ココナッツミルクとナンプラーを効かせたエスニック魚介カレーにトッピングしたり……とにかく大好きな食材だ。意外に守備範囲が広いのである。
トーストに納豆を乗せるのもオツなものだ。ただしこの時は醤油ではなく塩もしくは味噌で味を調える。納豆に醤油とは限らない。塩をふって掻き回してそのまま食べるのも旨い。これはこれで単純にビールのつまみになる。





関西などの近畿地方では納豆を食べない人が多い。九州では熊本や大分を例外として昔はあまり普及しておらず、沖縄あたりになると納豆の存在を知識でしか知らない人が多かったようだ。北日本と違い、気温の高い西日本から南では、冷蔵庫が普及する以前は納豆が二次醗酵してアンモニア臭が発生してしまうためだという説もある。暑い地域では納豆文化は育たないのだろう。





私の親友のトランペット奏者C君

( 沖縄出身 ) は、生まれてから沖縄を出るまで納豆の実物を見た事がなく、音大入試前の受験講習会で上京した時に豆腐屋で納豆というものを初めて買ってみた。ホテルの自室に帰って包みを開けてみたら激しく糸を引いている。 「 ・・・・うッッッわ!!・・・腐ってるじゃないのコレ! 」 と勘違いして全部ゴミ箱に叩き込み、購入した豆腐屋にクレームをつけに行って、逆にさんざん笑われて帰って来た。 ( 当時、“藁づと”に包んだ納豆を豆腐屋で扱っていた。豆腐屋で売っている納豆はオイシイのだ。もったいない・・・ )
現在のC君は納豆&ゴーヤのチャンプル等を考案するなど、週3回以上は納豆を食べないと手が震えて来るという 「 真人間 」 に成長している。素晴らしい。





親友ではないが単なる知り合いのヴァイオリン奏者S氏

( 兵庫県出身 ) は、水戸納豆の製造元の至近距離に実家を持つ友人から 「 近くの工場からイイ匂いがする。この匂いだけで飯2杯はイケル 」 と誘われて現地に行き、納豆の香りを否応なしに満喫させられた。
『 これじゃ飯どころやないで。呼吸でけへんやないか!ナメとんのか! 』 と怒り狂って東京の下宿先に戻って来た。素晴らしい。





・・・コイツは私の親友でも知り合いでもないテノールのK

( 原産地不明。故人 ) だが、納豆なんて人間の食い物ではない・・・・なんて抜かしていた。コイツは40歳手前で早くも痛風と糖尿病を人生のレパートリーに組み入れ、見事なまでの自己管理意識の低さを遺憾無く発揮しつつ、男の厄年の真っ最中に 「 クモ膜下出血 」 という特急列車に乗って三途の川の向う岸へ旅立った。健康食の納豆さえ食べていたら人生の真っ盛りに死神の訪問を受けずに済んでいたかも知れない。納豆には血栓を溶かす有効成分も含まれているというから、納豆を食べていたら今でもあの憎たらしい顔で元気にステージを闊歩していたかも知れない。





日本の納豆は古代中国からの伝来説や秋田発祥説やらいろいろあるらしい。納豆の代表的産地としては秋田や山形、茨城

( 水戸 ) 、九州の熊本があり、消費は福島あたりが多いようだ。福島の旅館で朝食に出された納豆が激旨なのに驚いた事がある。





以前、野球解説者の大久保博元氏

( 水戸商高→西武→巨人 平成27年度から楽天イーグルス監督に就任予定 ) が茨城県水戸市の舟型納豆をTVで紹介していた事があった。水戸芸術館のコンサートの帰りに偶然発見して購入してみたが、水戸納豆のレベルの高さを再認識する旨さだった。この時は舟型納豆に敬意を表し、納豆ご飯以外は余計なおかずを添えずシンプルに味噌汁だけで勝負したものだ。水戸は明治以降に鉄道開通 ( 水戸線 ) に伴って土産品として 『 天狗納豆 』 が販売されて以来、納豆の産地としてメジャーのひとつである。毎年3月10日に 「 納豆早食い大会 」 が開催されているらしいが、納豆を早食いするよりもオーソドックスな品評会をやったほうがいいんじゃなかろうかと思う。
どうも私は 「 早食い 」 とか 「 大食い 」 とかのイベントが好きになれない。モノを食べる早さや量を競い合う事に何の感動も感じられないからだ。・・・・食事って、そーゆーモノじゃないでしょうが。





九州では例外的に熊本で納豆が普及していた。安土桃山時代の武将・加藤清正

( 永禄5年/1562年~慶長16年/1611年 ) が秀吉の朝鮮出兵の際、蒸した大豆を稲藁に包んで兵糧として馬に積ませていたものが馬の高い体温と稲藁を好む納豆菌によって自然発酵して納豆になった・・・との説によるそうだ。
この加藤清正という武将は保存食という概念にすぐれた人だったようで、熊本城の畳材にイグサではなくズイキ
( 山芋などの蔓。関東ではイモガラと呼んで煮つけ料理にする ) を用いたり、壁に味噌を塗り込んだり、非常事態には城のあちこちを食べられる ( 笑 ) ように造らせている。それだけに、納豆自然製造説には信憑性があると思うのだが。
熊本には全国規模の納豆メーカーがあり、昔からスーパーマーケットでごく普通に入手出来たそうだ。ちなみに熊本で公演旅行の際に現地メーカーの納豆を購入してホテル自室で試食した時は、食パンとからしマヨネーズで食べてみた。熊本出身の仲間に奨められた食べ方で、しみじみと旨かった記憶がある。





一般に納豆消費量は北関東から南東北にかけて多く、生産量は茨城県が断トツで、消費量トップは福島県、消費量最下位は和歌山県とか徳島県とか云われていた。さすかに近年では関西でもスーパーなどで普通に納豆が陳列されているから、関西・四国エリアでも食べる人が増えたようだ。学校給食で納豆の小パックがメニューに加わるようになってからは、納豆を食べる事に馴れた子供たちが全国に広がり、それ以前の全国の納豆食分布に平均化をもたらしたのかも知れない。学校給食=パン食&脱脂粉乳だった私の世代にとって、納豆ご飯が給食で食べられるなんて考えもしなかった事である。





水戸出身にもかかわらず納豆嫌いの親友がいる。彼は納豆をはじめとする発酵食品が苦手で、ヨーグルトやキムチも受けつけない。発酵食品で例外的に食べられるのは味噌と醤油、ぬか漬けぐらい。
彼は納豆アレルギーでも食わず嫌いでもなく、水戸出身者のプライドにかけて納豆だけは何度も挑戦したそうだが、惨敗・玉砕・再起不能・瀕死・発狂・腸内レジスタンス等に苛まれ、

0勝67敗 ( 不戦敗15/試合放棄4/敵前逃亡1 ) の通算成績を残して納豆戦線から引退した。ここまで挑戦してダメだった人も珍しい ( 亭主の対戦成績を記録していたカミさんも物凄い ) が、水戸出身者でなかったら0勝3敗あたりの時点で潔よく無条件降伏していた事だろう。





納豆巻きを世に出したのは東京四ツ谷にある

『 纏寿司 』 だと言われているが、今ではすっかり全国的にポピュラーな巻物である。納豆巻きにする際は私は味噌で味を調える。これは寿司職人の後輩に教えてもらった調味法だ。また、金沢あたりでポピュラーな“いしり”を醤油のかわりに使うとコクが出て旨い。“いしり”とはイカ醤油で、私はイカ塩辛を作る際には味噌や糀と共に必ず“いしり”を使用するが、納豆のタレとしてもなかなか捨て難い魅力がある。騙されたと思ってちょっと垂らしてみて頂きたい。これで作るイカ納豆巻きはなかなか格別である。





オーストラリアで仕事をした時、ベジマイトというペーストに遭遇した。

「 オーストラリアの納豆 」 というニックネームを持つ発酵食品で、ビール酵母と野菜ペーストが主原料の茶色いスプレッド ( 塩味 ) である。



ベジマイト.jpg



このベジマイトとオリーブオイル塗ったトーストは、香ばしさと適度な旨味で忽ち私のハートを射止めてしまった。以来輸入食材店で購入してストックし、朝のトーストでは我家の食卓に欠かす事が出来ない。オーストラリア人にとってのベジマイトトーストは、我々日本人の納豆ご飯みたいなものかも知れない。





納豆ご飯用の納豆は、とにかくよく掻き回して糸を出すのが正しいという事だ。メーカーにもよるが、消費期限の2日前あたりが平均して一番旨いのではないかと私は感じる。
私が納豆を食べる時は、よくかき回して糸を引かせた納豆に、卸した辛味大根/卵黄/刻み長ネギ/青ノリ/鰹ぶし粉を混ぜ込み、3年物の再仕込み醤油

“穀醤” ( こくびしお/丸島醤油株式会社 ) で味を調えたものを玄米にかけて食べるのが常である。納豆の味を引き立てるのに不可欠と考えられる薬味をフルにトッピングするので、我が家では 「 フル納豆 」 と呼んでいる。


ただし玄米には注文がある。私は

“発芽玄米”を圧力鍋で45分加圧して20分蒸らす炊き方をしている。いわゆる炊飯器の玄米モードは使わない。圧力鍋で時間をかけて炊いた“発芽玄米”はもっちりしていて、まるでもち米のような美味しさである。この炊き方は東急東横線の代官山駅前でスクーターを使って玄米精進弁当を売っていた剃髪の住職さんとおぼしき人から伝授された方法だ。食べて美味しいだけではなく、ガン予防の薬膳治療食や再発防止食としては最高の主食となる。
( ・・・・末期ガンから生還して14年目のこの私が言うのだから、少しは信用してもらえるだろうか。 )





最後に 「 キムチ納豆 」 という一品について耳寄り情報を・・・・





キムチ納豆は、作ってからすぐ食べずに1時間待って頂きたい。

1時間経過する事によって納豆菌とキムチの乳酸菌が相互作用を起こして、乳酸菌が5倍に増えるのだ。腸内環境を調えるには絶好の一品だろう。キムチをキッチン鋏でパチパチ刻んだものを、よく糸を引かせた納豆に混ぜ合わせたら、とにかく待つ事1時間。味もそのほうが馴染んで旨味も確実に増す。



1時間熟成させたキムチ納豆を肴に飲むビールというものは、なかなか素晴らしいものがありますのよ。





入門志願者譚 2

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このテーマに関しては、2年ほど前に一度記事にした事がある。まずその記事 ( 記事リンク↓ ) を読んでみて頂きたい。




◆過去記事→ 入門志願者譚(※ 2012年1月6日アップ)




この過去記事は、2011年に仙台に於いて、

非常識きわまる受験生母娘にナメ切った真似をされた事が決定打となり、元々の門下以外の受験生を新たに指導する事に嫌気がさし、外部からの受験生指導受け入れを取り止めたのが2012年だった。




その年には、このブログを通じて何件かの入門志願を頂いたが、いずれも丁重にお断りしていた。私が入門志願者の親子に対してメールのやりとりのみで 「 お目にかかる時間を作らなかった 」 のは、つまり外部からの入門希望者の指導やアドヴァイスをお引き受けする気が失せていた、という事なのだ。




昨年 ( 2013年 ) の暮れからは、門下生以外の音大生の補習レッスンも全面停止した。来るのか来ないのか

( もっと極端に言えば、生きてるのか死んでるのか ) も判らず、何の連絡もよこさない他門下の補習生のために 「 演奏活動までの長期カリキュラム 」 を考えてやるだけ時間の無駄だし、そんな義理も責任も無いからである。




ただしプライヴェート門下生の家族や、門下から紹介された人に限っては、ジュニアだろうが受験生だろうが趣味だろうがレッスンを引き受けて来ている。こちらは当然ながら、これまで30年以上にわたって問題など起こったためしはない。サークル生がサークル解散とともにプライヴェート門下に移って来た例でも、何ひとつ問題は起こっていない。




つまるところ、何が云いたいのかという事だが、




自分から見て素性の確かな人は、無礼 ( 非常識 ) な事をしない




という事だ。ネット関係で何かを申込んで来ても、直接の知り合いでも顔見知りでもないから、平気で約束を反故 ( ほご ) にしたり、会う時間を設定してやっても訳のわからない理屈を並べて直前にキャンセルして来たり ( せっかく確保してやったこちらの貴重な時間が無駄となる ) 、こんな事ばかりが続けば、ネット関係からコンタクトして来る人間を一切信用出来なくなるのはアタリマエだろう。
過去記事で書いた2011年の宮城のタワケ母娘も、ブログ関係が元だった。
そりゃ、ブログを通じて入門コンタクトして来る人を信用出来なくもなりますよ。




今年から、門下生外であっても小中学生や受験希望者の入門を以前のように再開しているが、これは古参プライヴェート門下生たちから要請があったための措置だ。ここに具体的には書かないけれど、彼らにも考えがあっての要請だから私も承ったのだが、今度“何か”があったら現行の門下生以外のプライヴェート指導を金輪際お断りにする、という但し書きをつけた。もしそうなれば、以降純粋に私に入門したかったりアドヴァイスを受けたい人は、とんだ 「 とばっちり 」 を受ける事になる訳だが、それは原因となった人間を恨めばいいだけの話で、当事者である私の知った事ではない。




世の中、ピアニストになりたいのか、有名音大に入る事なのか、最終目標のピントがズレている人間が多い。あるいは、

「 有名音大卒やコンクール受賞歴・留学歴、著名な教授やカタカナ名の先生に師事したとかのプロフィールが書けるピアニストになりたい 」 という具体的な目標を口にする例はまだマシかも知れないが ( 笑 ) 、それにしても 何というちっぽけな目標 だろうか。その程度のプロフィールを持つピアニストなんぞ日本だけに限っても数千人は居る。国内の学生コンクールや民間のコンクールから始まって海外の大小様々な国際コンクールをざっと合わせても2千を超える。その数に第1位から第6位までを掛ければ、「 コンクール入賞者 」 の肩書きを持つピアニストは、重複を考慮しても年間で約1万人になろうか。10年経てば10万人。珍しくも何ともない。





どこの音大関係者に脅かされたのか知らないが、音大に入るにはそこの音大の教授に師事していなければならない ( あるいは師事するのが常識 ) という

時代遅れの迷信 を“刷り込まれて”いる例も多くて苦笑するばかりだ。
自ら演奏活動が出来ない教授ならば、合格手形をちらつかせて受験生から高額のレッスン代を取って副収入にする例もあるだろうが、そうやって高額なレッスン代を何年間も上納し続けて念願の音大に入っても、教授が後ろ楯になってくれるのは在学中の4年間だけ。担当教授はその生徒がどうやったら演奏活動出来るようになるのかを考えるスキルを持っていない。国際コンクール書類審査に添付する推薦状を書くのがせいぜい。毎年入って来て毎年卒業して行く全ての生徒の演奏活動の保証など、物理的に出来る訳がないのである。




どこの音大を出ようが、何のコンクールで入賞しようが、結局のところ自分の実力と運で生きて行くしかないのが音楽の世界。




「 それでは、音大の担当教授は卒業しても何もしてくれないんですね 」 と短略的な事を言う人間もいるが、何もしてくれないのではなく

「 何もしてあげようがない 」 のだ。演奏するのは教授ではなく本人なのだから。





極端な話、どこの音大を出ようが一般大学を出ようが、専門学校を出ようが高卒・中卒で終わろうが、ピアニストになる人間はなるし、なれない人間はなれない世界なのだ。音大は、どう演奏すべきか/どう音楽を考えるべきか・・・を教える場所であって

「 演奏家になるにはどうすればよいのか 」 の実際のコツを教える場所ではないからだ。




だいたいコツを知っていたら・・・・というより、演奏活動で食べて行けるなら、音大教官は音大になど勤めていない。私も演奏活動や練習が思いっきりやりたかったから勤務していた音大を20数年前に依願退職した人間だ。生活を保証してもらえる音大の専任教官を辞めるのは多少の勇気が必要だったが、ある種の

「 賭け 」 みたいなものだった。仲の良かった同僚教官たちからは 「 裏切り者 」 だの 「 俺たちを捨てて行くのか 」 と退職前日まで留守電に罵られたが、彼らもピアニストとして活動して生計の見通しが立つものなら、大学当局や重鎮教授連の目の色を伺いながら自分の練習時間を犠牲にするような宮仕えなど、私と一緒に放り出して辞めていただろう。ピアニストに限らず、演奏家という人種はそういうものだからだ。





目的手段を問わず、演奏活動で生きている我々プロの

「 ブラックリスト 」 に載るような不義理をしまくって念願の音大に入り、そこを卒業した後の事を考えたら鳥肌が立つ。音大は学校生活の4年で終るが、卒業後の世界ははるかに大きい。ピアノに限らず、その道で飯を食っている演奏家になれば何らかの形で裏で繋がっているものだ。2012年の過去記事にも書いたが、プロのピアニストを3人敵に廻したら致命傷である。ピアニストではないが、メジャーな国際コンクールを制覇したのはいいが、かつてお世話になっていた先生に弁解の余地もないような不義理をしてその先生を怒らせ、日本中に破門状をFAX ( 私のところにも届いた ) されて活動範囲が大幅に狭められた歌手が居る。以来、私も本人およびその門下の伴奏は引き受けていない。一人を怒らせてすら、そういう事になる。音楽界に於けるブラックリストや破門状は、ある意味 ヤクザの破門状より恐ろしい という事を認識しなければならない。下手すれば国境すら超えるからである。




ネットが発達し、ネット情報や検索が手軽に利用出来るようになった反面、私のように

「 ネットを関しての交流に強い警戒感を持つ 」 という人間も増えて来た。




私も演奏活動と並行して約40年、生徒を指導して来た人間である。直接会って話をすれば、相手がどんな人間かは大体わかる。ネットではそれが出来ない。だから今年 ( 2014年 ) からはやみくもにシャットアウトせず、まず会ってみる事にしているだけだ。




我々プロが直接5分も聴けば、その子がプロになれるかなれないのか、そんな事ぐらいは一発で判る。音大に入れるでしょうか・・・と心配する親が多いが、少子高齢化の今どこの音大も定員割れかその一歩手前だ。心配のあまり

「 音大教授詣で 」 をする必要などない。個人的には音大など目指さずに一般大学に行って視野を広め、しがらみを気にせずにプロに師事したほうが演奏家への近道だとは思うのだが。
( 最近では、演奏家めざして音大なんぞに無駄金をつぎ込むんなら、高校出てから海外の音楽院に留学させちまえ、そのほうが演奏家への確率は高いぞ ・・・・と親にアドヴァイスしている。)





日本の場合、音大卒業してからコンサートデビューするので、22~23歳にはなっている。18歳やそこらの音大1年生では絶対にデビューなぞさせてもらえない。私がピアニストとしてコンサートデビューしたのは18歳の時であるが、ずいぶん後になってモスクワ音楽院に留学した時、担当教授や級友たちにこう言われたものである。




18歳とは、また随分と遅いデビューだったね。何か特別な事情でもあったの?




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