Quantcast
Channel: 一世(issei)オフィシャルブログ
Viewing all 367 articles
Browse latest View live

打鍵法改造とショパンのピアノ協奏曲

$
0
0


ショパン・ピアノ協奏曲/楽譜.jpg


パデレフスキー版のショパンの楽譜。
利権の問題があり、内容に捏造等の不審点が多いナショナル・エディション(エキエル版)を私は使わない。




正直、今年はクリスマスどころではなかった。




今年秋から自分自身の打鍵を改造している最中で、それに合わせてレパートリーの焼き直しをしているが、余りにも厖大な時間が掛かる。クリスマスも正月もへったくれも無い 。( 毎年似たようなものだが…笑 )




12月には某音楽鑑賞団体の招聘でショパン・ピアノ協奏曲第1番ホ短調、第2番ヘ短調をレクチャーで弾く用事があったため、かなりの時間をかけて打鍵改造をしていたが、自分自身思うような演奏には程遠いものだった。




ピアノ協奏曲第1番ホ短調は1984年に米国ロサンゼルスで、第2番ヘ短調は1985年に台北で、初めてオーケストラをバックに弾いた。ベートーヴェン ( 1、3~5番 ) やプロコフィエフ ( 3番 ) 、ラフマニノフ ( 2~4番 ) 、グリーグは70年代に弾いているから、ショパンの2つの協奏曲はかなり後になってから人前で弾いた事になる。2曲とも人前で最後に弾いたのは1991年、私の門下生に第2ピアノ ( オーケストラ・パート ) を担当させた2台ピアノ公演。それ以後は公開・非公開にかかわらず人前で弾いていないから、随分と間が空いている。




第1ピアノ ( ソロ・パート ) ではなく第2ピアノ ( オーケストラ・パート ) になると、1992年2月に門下生 ( 現・海外組 ) の相方を務めて以来。ただ、門下生にこの2曲をレッスンする時は私は第2ピアノを弾くので、オーケストラ・パートにブランクを感じた事はない。
オーケストラ・パートといえどもレッスンと本番では当然ながら意識が異なるわけで、感覚としてはオペラのピアノ伴奏に近い。いかにオーケストラの響きを再現するか・・・・がポイントになるから、第1ピアノと第2ピアノでは求められる要素が異なるし、打鍵の方法論も違う。




第1番のソロ・パートを弾きたがる人間は、自分の実力を冷静に判断出来ない人間が多い。そういう人間を起用してコンサートを企画して私まで恥をかいた事もあったし、数年前もアマチュアの愛好家と共演“寸前”まで行ったが、とうとう本人が ( 大言壮語の割には ) 楽譜通りにマトモに弾く事すら出来ず、本番そのものが有償キャンセルになった。( ・・・・もっとも、キャンセルにならなかったとしても東日本大震災に日程が被さっていたから、どのみち公演は 「 不可抗力による公演中止 」 になっていただろうけど。)




だから、ショパンのピアノ協奏曲にはここ20年ほどマトモな思い出が無い。ショパンにはショパンとしての ( 私なりに考える ) 音色や雰囲気があり、最低限その領域にまで到達する事は絶対に妥協出来ない。ましてや基本的テクニックが追い付かず、楽譜の指定速度ですら弾けない人間を相方に起用した日には、赤っ恥をかくのは私自身である。




来年は “真っ当な実力を持った相方” を起用したピアノ・デュオ公演を制作してショパンの協奏曲2曲を演奏するつもりでいる。共演者の全面フォローなど心配せずに自分の演奏に集中出来るピアノ・デュオ公演を制作出来るのは、23年ぶりになるだろうか。曲の性格上、観客動員が見込めないから大々的にホールでやるつもりはないが、一度この企画はキッチリと決めておきたいと考えていた。イの一番にやりたいと考えていたが意に反して難色を示されたので仙台でやるつもりは無くなったが、東京で1回決めればそれで充分だと思っている。




おそらくオープンには宣伝しないだろうし、全門下・全生徒に情報を流すかどうかも分からない。

私の立場で門下全員にコンサート告知すれば、私にそのつもりが無くても自然に 「 強制 」 になってしまう からだ。普段のファンサービス・プログラムとは全く違う性格の直球勝負のプログラムだから、義務感で来る人間に聴いて欲しいとは思わない。本当に 「 聴きたい 」 と思う人だけがごく少数来てくれればそれでいいと考えている。




だからこそ、私自身の打鍵改造は急務なのだ。私ももう若くはないし、打鍵法を変えるのは今回が最後になるだろう。来年のデュオ公演まで果たして間に合うか ・・・・ 焦りは禁物だと分かっているのだが ・・・・






特大ホタテに感謝感激

$
0
0


ホタテ.jpg


ホタテ1.jpg



門下生のご実家から頂いた見事な特大の活ホタテ ( 青森産 ) 。全部で20個。ここまで見事なホタテ貝は見た事がない。早速、殻から外して貝柱・ヒモとに分けた。貝柱は包丁でさばいて刺身で頂いたが、超絶のレヴェルだった。宮崎の実家から招待している義母の喜ぶ事喜ぶ事!




焼き物も良し、炊き込みご飯も良し、色々と活用出来る。タウリン摂れまくりで疲労回復にこんなに有り難いものは無い。




先日、江の島で生シラスとサザエのつぼ焼きを食べて来たが、それにしても今年は一級の海産物に出会えた1年だった。動物性蛋白質を魚介類に頼っている私にしてみれば、今年は本当に有り難い1年と言えるだろう。




今年の仕事納めは30日。もうひと頑張り ・・・・ だ。ここを乗り越えれば、31日から正月にかけてピアノ部屋にこもってじっくり自己練習に集中出来る。ホタテのタウリンで疲労を抜かないと!



ホタテ3.jpg


ホタテ2.jpg



・・・・ しかし見事なホタテだ。これ程の上物はめったにお目に掛かれない。感謝・感謝・感謝 ・・・・・






2014年総括

$
0
0
アメンバー限定公開記事です。

最高の「お節」にて新年を・・・・

$
0
0


お節 全体.jpg




喪中ではありますが、今年は九州/宮崎の実家からお義母さんを東京にお招きして、本格お節を召し上がって頂きました。義父が昨年亡くなって、義母のために・・・・という事で予約し、大晦日に私がお店まで受け取りに行きました。ずっしりとした重さで、内容の充実が伝わって来るお節でした。




新宿5丁目の高級店 「 和味 りん 」 の2段お節。芳賀板長が八方手を尽くして仕入れ、数日かけて全て手作りした “究極” のお節。義母・娘・家内・義弟・甥2人そして私の7人で跡形もなく完食し尽くしました。



お節が一度で完食・・・・・・いかに美味なるお節だったかお分かりだろうか。かなりの量のお節でも、美味しければ完食となるのだ。この内容と量で2万円台・・・・・こんなお節は初めてでありましたぞ!!!!!




これはもう、東京の自宅で新年を迎える年には絶対に欠かせないお節になりました。板長の “匠の技” で迎える新年は最高でありますなあ!!!



お節 1の重心B.jpg
お節 1の重.jpg


< 1の重 >



お節 2の重B.jpg
お節 2の重.jpg


< 2の重 >





本日

$
0
0
アメンバー限定公開記事です。

昨年の終りに某サークルから脱退した「造反分子」とその顛末に関する、興信所の調査報告

$
0
0

アメンバー限定公開記事です。

サン=サーンス:ピアノ協奏曲第5番の世界初録音(SP盤/1943年録音:ビクター)

$
0
0


安川先生SP盤.jpg


安川先生御影.jpg

安川 加壽子 ( 1922年~1996年 )




東京藝大ピアノ科主任教授や日本演奏連盟理事長として戦後の我が国の楽壇を牽引された故・安川加壽子先生 ( やすかわ かずこ、1922年~1996年 ) が、ご結婚される前年の1943年に録音されたSPレコードがある。




安川先生は旧姓“草間”で、録音当時21歳。外交官の父に伴って1歳で渡仏。12歳でパリ国立音楽院本科に入学してラザール・レヴィ教授のクラスに入り、14歳でパリ国立音楽院ピアノ科をプルミエ・プリ ( 1等賞 ) を得て卒業した。第二次世界大戦の欧州における戦局の悪化に伴って1937年に日本に帰国し、1940年に国内デビューしたが、大戦末期は疎開先でピアノに触るどころか

水汲み作業に数ヶ月も従事された時期もあったという。




録音がなされた1943年は太平洋戦争の真っ最中で、2月にガダルカナル島からの撤退、4月に日本海軍連合艦隊司令長官・山本五十六元帥が視察先のブーゲンビル島に墜落死、5月にアッツ島の日本守備隊が玉砕…という情勢悪化の年であり、10月には東條内閣による 「 学徒出陣 」 によって高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系 ( および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の ) 学生を在学途中で徴兵し、兵力不足を解消させるべく戦地へ送り込むという“愚挙”まで行われた。




録音の翌年である1944年に海軍予備学生・府立第9中学教員だった安川定男氏

( やすかわ さだお、1919年~2007年/東京帝大卒。国文学者。中央大学文学部教授を歴任。 ) と結婚し、“草間加壽子”から“安川加壽子”となっている。




YouTube音源 ⇒ サン=サーンス:ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》(世界初録音)/尾高尚忠(指揮)、草間加寿子(ピアノ)、東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)録音:1943年




この録音は、指揮の尾高 尚忠

( おたか ひさただ、1911年~1951年 ) の唯一の貴重なスタジオ録音であり、同曲の世界初録音。ピアノ独奏パートは極めて演奏至難であり、現代でも余り演奏される機会がない。それを弱冠21歳の時点でレパートリーに入れていた安川先生の腕前の凄さに驚く。




案外知られていない事だが、こうした歴史的録音をSPレコードから YouTube にアップする作業は、実は大変な編集労力や技術・時間を要する。SPレコード対応の針も入手困難になりつつあり専用レコーダーも高価である事から制作経費も掛かるため、世に埋もれている歴史的SP録音はまだまだ多い。このたびこの録音を YouTube にアップされた篤志家にあらためて敬意を表したい。





タクアンの燻製を作ってみた。

$
0
0


自宅前にある農家が練馬大根を干して無着色タクアンを自作している。12月に漬け込み、翌年1月から 「 蔵出し 」 となるのだが、これが実に美味い。もう昇天モノの美味さ、黙示録ハルマゲドン的な美味さであります。この無着色無添加タクアンを食べてしまったら、他のタクアンにはちょっと手を出せなくなるのだ。




いつも買って来てはスライスして貪り食っているのだが、今年は更に一計を案じ、このタクアンを

燻製 にしてみる事にした。つまり、簡易な“いぶりがっこ”という訳でありますな。





タクアン 陰干し.jpg


まず、タクアンを洗ってヌカを落としたものをキッチンペーパーで水気を拭き取り、適当な長さに切って陰干しする。午前10時から夕方4時頃まで。6時間の陰干しで水分を抜く。

( さらに30分ほどドライヤーで温風乾燥した。ここまでやると、元の太さの3分の2くらいに縮む。)


乾燥行程はしっかりやっておかないと燻製にした時に旨味が出ない。



タクアン 燻煙鍋に.jpg


燻煙鍋の底にサクラチップを10グラム入れて、網の上にタクアンを2カットずつ並べて強火。



タクアン 燻煙鍋にフタ.jpg


煙が上がって来たら、鍋蓋をして弱火で7分。7分経ったら火を止めて鍋を保温器 ( 付属品 ) に乗せて30分そのまま。鍋の中で燻煙が回っている。



タクアン 燻製1.jpg


完成した

“タクアンの燻製” であります。右の濃い茶色のは2度燻製にしたもの。残りの2本 ( 真中と左 ) は1度燻製。



タクアン 燻製 2.jpg


スライスは少し薄目にした。中の水分が程よく抜けて、何ともいえない香ばしさと旨味がある。自家製にしてはなかなかの味に仕上がった。




燻製鍋があれば、大抵のスモーク食品は自作出来る。煙もほとんど洩れないのでマンションでも大丈夫。私はナッツ類とかタコをスモークして酒肴にするのだが、バチマグロ赤身の柵を買って来て

“マグロジャーキー” も作れてしまうのだ。




とにかく、これからは無着色タクアンを購入したら、燻製でも楽しむ事にしよう。




(^皿^) …え?どこで売ってるのか教えて欲しいだと? 申し訳ないけど教えないよ。ワタシの自宅マンションを知っていれば探せる…とだけ申し上げておきまひょ。







道具類を使わずにTシャツを一瞬でたたむ方法(動画)

$
0
0

アメンバー限定公開記事です。

おでん譚(出汁、ネタ他)

$
0
0


おでん‾00.jpg


おでん出汁.jpg



1月30日 ( つまり昨日 ) の午前中、おでん2鍋分‥約4リットルの出汁を取った。



かつお本枯節 ( 静岡・焼津産 ) 、大羽いりこ ( 瀬戸内海産 ) 、うるめ鰯干 ( 熊本産 ) 、どんこ ( 干し椎茸/宮崎産 ) 、焼きアゴ干 ( 長崎産 ) 、 利尻昆布 ( 北海道産 ) 、さば本枯節 ( オホーツク産 ) 、 無漂白かんぴょう ( 京都産 ) 、干し海老 ( 静岡産 ) 、干し貝柱 ( 青森産 )


※ それぞれの分量は内緒‥‥何?、量と経費と手間にウンザリしそうだと?おでん専門店ならこの程度の下準備は普通にやっているぞ。




さらに醤油は、マルシマ醤油から出ている3年物の再仕込み醤油 『 穀醤 / こくびしお 』 をごく少量使用。甘味は、素炊糖 ( すだきとう / 種子島産のサトウキビを粗く精製したもの ) を微量‥‥4リットルに対して大さじ3杯弱。


こうして材料を自分で吟味して作れば、中国産だのPH調整剤だの、たんぱく加水分解物だの、増粘多糖類だの、加糖ぶどう液糖だのとは一切無縁の安全で旨い出汁が出来るのだ。市販の粉末だしの素や化学調味料や安売り醤油を使ってもおでん汁は出来るだろうが、そんなものを家族や生徒には食べさせたくはない。

( 末期ガンから生還して今年の夏で15年目を迎えるが、退院して再発はおろか一度も風邪をひかずに居るのは、食事そのものや食材・調味料に妥協をしないで来たお陰もあると思う。私の平熱は37℃を越えているが、基礎代謝を上げて血中免疫力を上げておけばガンと無縁になれるのだ。私に“死んで欲しい”と思っている奴らには申し訳ないがね‥‥ははは )




さて、この 「 おでん用出汁 」 をベースにして、ネタを煮込んで行くわけだ。さつま揚げ等の “ 揚げネタ ” は、日本酒をたらした熱湯でサっと湯がいてネタ臭さを取っておく。コンニャクはまな板の上で麺棒等で軽く叩いて組織を均し、適当な大きさに切ってから湯がいてアク抜きしておく。ダイコンは米のとぎ汁 ( 最初の汁 ) で下茹で‥‥‥こんな具合だから、美味しいおでんを作ろうと思ったら際限が無いのでありますね。




おでんネタは関東・関西・九州・東北など各地で異なる。関東人の私には欠かせない

「 ちくわぶ‥小麦粉の生地を太棒に押し固め、表面に凸凹をつけて加熱し、棒を外したネタ 」 を九州の宮崎や関西で探しまわった事があるが、発見できなかった。




私の高校時代は寮生活だったため、寮内の食事で時々おでんを食べていたが、寮生は日本全国からやって来るから好みのおでんネタがみんな様々で面白かった。何のネタをおでんに入れるかでモメる事こそ無かったが、千葉県船橋市ならではの 「 関東風おでん 」 に入寮したての頃に目を白黒させながら食べていた仲間達がほとんどだったと記憶している。




高校時代、部活動 ( サッカー部 ) 夏の合宿トレーニングは千葉県の外房にある御宿 ( おんじゅく /勝浦市のすぐ隣 ) の海岸で走りに走ってフィジカル・トレーニングをするのが恒例だった。その際、毎年お世話になっている海岸近くの 『 海の家 』 にあらかじめ電話依頼し、おでんを人数分予約しておく。人数分と言っても250名以上の部員数だから、巨大な寸胴鍋をいくつも用意して作ってくれていた。海岸の砂浜を散々走ってヘトヘトになった身体に、この時の 「 おでん 」 ほど有り難いものは無かった。外房でしかも大原だの勝浦だの漁港・市場が近いから、出汁にはタコやフジツボなどの海産食材が利いていた記憶がある。私がネタにタコを使うのは、高校時代の夏合宿の 「 海の家の外房おでん 」 がきっかけである。




まだ大学に専任で勤務していた20数年前、勤務が終わってから同僚の先生二人とアメ横の裏手にあった屋台おでん屋に寄ってウサ晴らしをしたものだ。


500円札1枚…この頃は紙幣だったなあ…で、おでん ( お好きなネタ3種 ) とマスに入ったコップ酒を2杯‥というお得なセットで、3人でそれぞれのおでんをつつき合いながら文部省 ( 現・文部科学省 ) の悪口を言うのが我々のウサ晴らしだった。「 おっちゃん、酒おかわり! 」 と云えば、マスのコップに酒をビンで注いでくれる。酒はコップから溢れてマスまでいっぱいになる。その “ 余禄 ” がまた嬉しかった。私が頼む3種ネタは、

ちくわぶコンニャクダイコン‥‥と決まっていた。



おでん缶‾00.jpg



いつ頃だか、JR大宮駅の新幹線改札内の売店で 「 おでんの缶詰 」なるものを発見して思わず土産品に購入した。


ネタの中には牛スジ肉もあるので私は食べる事が出来ないが、かなり好評だった。秋葉原や千葉の銚子あたりでかなり以前から発売されているみたいだが、缶切り不要で常温でも美味しく食べられるそうだから、消費期限 ( 製造日から3年間 ) さえ気をつければ非常食にも使えるかも知れない。ただし

かなりの甘口だそうだから普通のおでんを想定して食べると違和感を感じるそうである。


ちなみに、5年間保存タイプのおでん缶詰
  ‥‥‥‥もあるらしい。


ロシア留学時代に無性におでんを食べたくなって、ネタから作って食べた事がある。一緒に住んでいたおばあちゃんや、知人のロシア人にも食べさせたが、とうとう理解されなかった。

こってりと脂の利いたボルシチ等を食べるロシアの民には物足りない味だったのかも知れない。おでんは、日本を代表する国民食のひとつだから、日本人の味覚に完全に合致した料理で外国人には必ずしも受け容れられるとは限らない‥‥という事なのだろう。


最後に、おでんネタ必須の 「 昆布 」 だが、興味深い事に
外国人は昆布を始めとする海草類を消化吸収出来ないそうである。外国人が何とか消化吸収可能な海草類は焼き海苔だけである。おでんネタの昆布は加熱してあるとは云え、ちょっと難しいかも知れない。

海草類は日本民族が縄文時代から現在まで数千年にわたって食べ続けて来て、海草類を消化吸収する事が出来るようになっている。日本民族に限らず数千年もの間、海草類を食べ続けてて来た民族ならばそういう身体になっているだろう。私はおでんネタの昆布に限らず、もずく、メカブ、ギバサ、、沖縄ではメジャー食品の“海ぶどう”、海草サラダ、刺身ワカメ、ヒジキ煮つけ、アオサの味噌汁、岩ノリ料理など、海草類は全部大好物である。豚から精製されたゼラチンは食べられない→料理に使えないので寒天 ( 原料は海草類 ) のお世話になっているし、トコロテンも大好きだ。杏仁豆腐は、粉寒天と杏仁霜と豆乳で自作して食べている。海草類サマサマである。これも我々の先祖サマ達が海草類を食べ続けてくれた賜物という事なのだろう。もちろん、私の自作するおでん出汁にも昆布はタップリ利かせてある。昆布だしに鰹だしを乗せるのが出汁取りの基本だ。





‥‥‥ヤマト民族でヨカッタなあ。しみじみ。





ショパン・ピアノ協奏曲2曲を「弾き降り」したツィメルマン(ツィマーマン)

$
0
0


ツィメルマン 弾き降り.jpg






クリスティアン・ツィメルマン ( ※ 日本ではツィマーマンとカタカナ表記される事が多いが、ここではツィメルマンと表記する ) が指揮&ピアノ…要するに弾き振りで演奏したショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11、第2番ヘ短調Op.21のCDが独グラモフォンから出ている。もう15年ほど前のリリースになるが。




オーケストラは、ツィメルマン自身が銀行をスポンサーとして自ら結成した「ポーランド祝祭管弦楽団」。ポーランド国内の350人以上の応募者の中から、ツィメルマン自らオーディションで選抜し、長時間に及ぶ徹底的なリハーサルにより、ショパンの2曲のピアノ協奏曲をツィメルマンが考える最も理想的な形に具現した。要するに、オーケストラを完全に支配下に置き、自ら指揮者も兼ねる事によって指揮者とソリストとの意見の相違を最初から排除したスタイルなのだ。





ツィメルマンはこのオーケストラを率いて世界40ヶ国をツアーしながら、団員の食事メニューの吟味からホテルの選定、ツアーの交通手段に至るまで行っている。つまり

演奏者・音楽監督・総合プロデューサーの3役をこなしたという事だ。




かつてカルロ・マリア・ジュリーニの指揮でショパンのピアノ協奏曲を録音した時、ツィメルマンは弱冠22歳の青年であった。いくらショパン国際コンクールの優勝者 ( 1975年/第9回 ) ツィメルマンといえども、天下の巨匠指揮者ジュリーニに自分の解釈を全面的に主張するなど出来なかったろうし、逆に出来たとしても老練で狡猾なオーケストラ団員が指揮者のタクトに大人しく従うかどうか…という問題が残る。協奏曲というものは 「 指揮者とソリスト 」 「 指揮者とオーケストラ団員 」 という2つの問題にどれだけ折り合いがつくか……という点で非常にデリケートなものなのである。


ただし、巨匠指揮者との共演は若手ピアニストに多くの財産をもたらす事も事実である。ツィメルマンはジュリーニ以外にも世界の大家・巨匠クラスの大物指揮者と共演を果たし、深い共感を覚えた事も一度や二度ではなかったという。ツィメルマン自ら 「 弾き振り 」 をするという事は、かつて共演した指揮者との共感部分を一ヶ所にまとめる作業にもなるのだ。




そもそも、指揮者が手兵のオーケストラを数十年も振り続けて、尚且つ完全に音楽的支配下に置くのは難しい。


数少ない例を挙げるならば、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮のNBC交響楽団、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、ジョージ・セル指揮のクリーブランド管弦楽団、ユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団、エルネスト・アンセルメ指揮のスイス・ロマンド管弦楽団、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団、ギュンター・ヴァント指揮の北ドイツ放送交響楽団‥‥くらいだろうか。

例えば、アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団を50年もの長きに亘って振っているが、それでもアンセルメの意図を完全に近い形でオーケストラが具現できたのは最後の数年間でしかなかったという。指揮者の立場ですらそうなのだ。オーケストラが何十人もの演奏家で成り立っている「集合体」である以上、指揮者の意図を100%再現しようとしても力量・個性・解釈・感性が異なる演奏家であれば当然ある種の誤差も生じて来よう。ましてや、その指揮者とソリスト(独奏者)の解釈や考えを完全に同一にする事は不可能である。指揮者という「種族」はまず自己の解釈を第一に考えるから、ソリストでさえもその支配下に置こうとする。まず、その部分で大なり小なり軋轢が生じる事になる。ツィメルマンはそれを嫌ったのだ。自分の考える理想的なショパンのピアノ協奏曲を実現するためには、指揮者との「意見のすり合わせ=妥協」など論外であり、さらに既成のオーケストラを音楽的支配下に置く事などほぼ不可能であると彼は考えたわけだ。




長くそのオーケストラを指揮していても、指揮者の意図を完全に具現し切れずに終わる場合も少なくない。カルロス・クライバーの父エーリッヒ、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、メンゲルベルク、ピエール・モントゥー、カール・ベーム、ブルーノ・ワルター……これらの偉大な指揮者達の要求する音楽に、オーケストラ団員はとうとう完全には付いて行く事がかなわなかった。ベルリン・フィルでさえもカラヤンのコントロール下には入ったが、ベームのコントロールには入れずじまいだった。




指揮者とオーケストラとの相性や、オーケストラそのものの気質、指揮者のタイプ

( 楽団員の支持を得やすいタイプか、総スカンを食うタイプか ) 、オーケストラの待遇/楽団そのものの運営状態…という諸々の要素が複雑に絡み合っているのがオーケストラの世界だ。ピアノであれヴァイオリンであれ、そうした海千山千のツワモノたちがひしめく世界に単独で切り込まなければならないのがソリストなのであるから、ハタで見ているほど華やかな世界ではなく、実際はドロドロした世界なのである。




ピアノ協奏曲の場合、

指揮者がピアノ独奏者に完璧に 「 合わせ 」 て指揮を振ってくれるのは、国際ピアノ・コンクールの 「 本選 」 くらいしか無い。それ以降は次第にピアニストはピアノ協奏曲をオーケストラと共演しなくなって行く。再びオーケストラと共演しようと思う時は、そのピアニストがヴェテランの領域に達してから‥という場合が多い。ある程度のキャリアと年数を積まなければ指揮者には押さえられるしオーケストラ団員には小馬鹿にされるし‥なのだ。




あのツィメルマンでさえ、少なからずそうした経験をしたそうである。完全に支配下に置けるオーケストラをゼロから作り上げ、自らの解釈に沿って鍛え上げ、指揮者とソリストを兼ねて自ら演奏する‥‥生涯のうちに是非ともやりたかった事だった、という。そのためにスポンサー探しなどの準備を数年間かけたそうだ。あれほどの超一流演奏家がスポンサー候補に頭を下げてヨーロッパ中を何年も廻る‥‥オーケストラが設立されてコンサートツアーが始まった後は、ポーランド大統領やフランスのシラク大統領、ベルギー国王夫妻など大物スポンサーが続々と名乗りを上げたが、オーケストラを立ち上げるまでのスポンサー獲得の苦労は並大抵ではなかったのだ。まず最初のスポンサーをどうするか‥‥いかなる場合でも重要な命題である。




Krystian-Zimerman 1.jpgKrystian-Zimerman 1.jpg


Krystian-Zimerman 2.jpgKrystian-Zimerman 2.jpg



この録音には、ツィメルマンの考える 「 この時点での理想のショパン 」 が究極の形で盛り込まれていると同時に、芸術家ツィメルマンの執念も感じられる。この録音から聴こえて来るツィメルマンのピアノは、彼が今までに世に出して来たどの録音よりも素晴らしい出来栄えに私には思える。ジュリーニと共演した頃よりも落ち着いたテンポで演奏されているが、細部まで徹底的に掘り下げて 「 呼吸 」 を大切にしたフレージングを心掛けている点が流石である。またツィメルマン自身、往年の大ピアニスト達の名演を数多く聴いて自分の血肉としている点も見過ごせない。楽器の構造にも精通し、ピアノのアクションの簡単な修理なら自分でやってのけてしまう。


見過ごせないのは、指揮者としてもオーケストラを完全にコントロールしている事だろう。音楽の全部門において、本当に才能を必要とするのは指揮者である。どんなに優れたピアニストでも優れた指揮者になれるとは限らない。才能に関係なくピアニストにはなれるが、指揮者ばかりは才能が左右するのである。という事は、超一流のピアニストでありながら超一流の指揮者にもなったヴラディーミル・アシュケナージもダニエル・バレンボイムも、そしてこの録音を聴く限りにおいてクリスティアン・ツィメルマンも、超弩級の才能の持ち主なのであろう。




Krystian-Zimerman 3.jpgKrystian-Zimerman 3.jpg



アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリ亡き後、芸術家と職人の両者を兼ね備えたようなピアニストは、今やツィメルマンくらいしか居なくなってしまったが、ツィメルマンにはもう一度、ポーランド祝祭管弦楽団を再編成して今度は是非来日してショパンの協奏曲2曲を“再演”して欲しい。日本も不況の真っ只中で世知辛い状態になっているが、日本公演ツアーを単なる 「 観光旅行 」 としか認識していない二流のオーケストラを呼ぶくらいなら、ツィメルマン率いるポーランド祝祭管弦楽団を招聘して、たまにはマトモなショパン:ピアノ協奏曲を日本国民に是非とも聴かせて頂きたいと本気で思う今日この頃である。



Krystian-Zimerman 4.jpgKrystian-Zimerman 4.jpg




「譜めくり」についての一考察

$
0
0


製本.jpg



画像は、今年のピアノ・デュオ公演に使用するショパン・ピアノ協奏曲のパート譜‥‥第2番Op.21のソロ・パート譜である。ソロ・パート用とオーケストラ・パート用に、それぞれ 「 切り貼り 」 してコピーし、製本したもの。表紙にはレザック大 ( 羊皮紙のような厚紙。耐久性に優れる )を、貼り付けには糊ではなく両面テープ ( 経年劣化による変色のない TERAOKA の両面テープを採用。ニチバンのナイスタックは使い勝手は抜群だが劣化が早い ) を使用した。



何故わざわざパート楽譜を自作するかというと、演奏者自身で “譜めくり” が出来るようにするためである。

( ちなみに、自分で購入した楽譜を自分自身が使用する目的でコピーする分には、著作権侵害にはならない。)




こうした自分用の楽譜は自作しなければならない。譜めくりの事まで考慮したパート譜なんて販売していないからである。私はピアノ・デュオ作品を編曲する段階から、それぞれのパートの譜めくりを考慮して編曲するが、既製のピアノ協奏曲等ではそんな事まで考慮されていない。ソロパートは本番では 「 暗譜 」 で演奏するものだが、ピアノ・デュオで公演する場合、アンサンブル練習 ( 合わせ ) の際にどうしても楽譜が必要になる。練習のたびに譜めくり係をそれぞれ連れて来ていたのでは余りに効率が悪い。




ショパンの2曲のピアノ協奏曲をピアノ・デュオ形式 ( 2台ピアノ ) でステージに乗せる事は80年代後半から92年にかけて良くやっていた。いずれも門下で腕の立つ生徒を共演させていたが、必ずどちらか1つのソロ・パートを生徒に弾かせていた。公演そのものに責任感を持たせるためと、ソロ・パートとオーケストラ・パートを両方経験させるためである。




当時の手帳を見てみたら、85年に最初のデュオ公演を竹橋・科学技術館ホールで行ってから、92年春の本郷・バリオホールまで16公演。すべて門下から共演させた。そのうちショパンの2曲のピアノ協奏曲で公演したのは7回。最初

( 1986年/新宿文化センター ) に共演させた高木君は現在ベルリンに、最後 ( 1991年/市川市文化会館 ) に共演させた朝岡君は現在ウクライナのキエフで、それぞれ教鞭を取っている。共演に際しては自分のソロ・パートの楽譜は自分で切り貼り作成させた。楽譜の切り貼り作成~製本作業は慣れないと大変だが、これが出来ないとアンサンブルの仕事が務まらなくなる。歌などの伴奏でいちいち譜めくりを当日頼みまわるようでは伴奏者失格だからである。私の門下生には、そういうみっともない真似をしてもらいたくない。




今年のピアノ・デュオ公演も私の生徒に共演させるが、バリバリの現役ピアニストとして演奏・指導活動をしている生徒だ。そういう生徒は門下にゴロゴロ居るが、生徒を“相方”にしてショパンの2曲の協奏曲をデュオ公演するのは1991年以来実に24年ぶりになる。‥‥ずいぶん間が空いてしまったものだ。それだけに、今年のデュオ公演には期するものがある。




私は門下生に、 「 アンサンブルの仕事で譜めくり担当を付けるようなピアニストにはなるな。自分の楽譜は自分自身でめくれるように、自分で工夫しなさい 」 と常々教えている。本番で何でもかんでも暗譜で弾かなくてもよいけれど、楽譜を見るなら表紙も含めて美しく製本された楽譜を自作して使いなさい‥‥という事だ。




アンサンブルで譜めくり担当をつける資格があるのは、アルゲリッチやアシュケナージ、リヒテル等の、いわゆる

大家・巨匠である。こういう超一流ピアニストの至近距離に座って譜めくりを担当する経験は、何物にも代えがたい素晴らしい財産になる。世界レヴェルの大家・巨匠ならともかく、私ごときの譜めくりをやっても何の財産にもならないし名誉にもならない。だから自分自身で譜めくりを考慮した楽譜を作成しているのだ。人間は“身の程”をわきまえなければならない。




楽譜の切り貼り作業だが、実はハマると面白い。私は今までに自作のパート楽譜を何百と作って来たが、切り貼りした原本を保存しておけば何度でも作れるし、楽譜にどんどん書き込みしまくる事が出来る。昔の楽譜には当時私が考案した運指

( 指使い ) が書いてあるし、演奏に関するコツも随所に書かれていて当時の自分のレヴェルを知る手掛かりにもなる。ちょっとした財産だ。




また、譜めくりを考慮した切り貼り作業は、パズル解きのような感じで“頭”を使う。右ページの最終小節で譜めくりが出来るように考慮して切り貼りする。場合によっては右ページが3段未満で終わったり、見開きではおさまり切れないから1~2ページ分繋げたり‥‥こういう作業をすると曲も頭に入るし、形式全体も俯瞰して考えられる様になる。演奏も踏み込みが深くなる。




楽譜の 「 切り貼り作業 」 を面倒臭がって、パシャンパシャン音をたてながら余裕のない譜めくりをしたり、譜めくり担当者を当日“付け焼き刃”で探しまわったり公演責任者に用意させようとしたり‥‥こういう手合いを見掛けたら 「 アマチュア 」 と思ったほうがいい。音大ピアノ科出だろうが、断じてプロではない。仕事に対する意識の時点で

論外である。




ナポレオンの出身地であるフランスのコルシカ島に生まれ、1992年に81歳でパリに歿したピアニスト、アンリエット・ピュイグ=ロジェ

( Henriette Puig-Roget ) 先生は、80年代に入って来日して東京藝術大学などでピアノ ( 独奏・伴奏・室内楽 ) やソルフェージュを指導する傍ら、多くの邦人演奏家と共演したが、確か1983年だったか、東京・赤坂の草月ホールで邦人歌手の伴奏者を務められたコンサートを拝聴した際に、ピュイグ=ロジェ先生の楽譜に仰天した。
プログラムはドビュッシーやラヴェルの歌曲だったが、譜めくり不要の楽譜を先生ご自身で作成して使っておられた。前から2列目の席でも楽譜の詳細は確認出来なかったが、すべて手書きと切り貼りで作っておられた。声楽コンクール等で 「 どなたか譜めくりをお願い出来ませんかぁ!? 」 と恥も外聞もなく控室で叫び回る連中を散々見てきた私は、ピュイグ=ロジェ先生の楽譜に対する姿勢を目の当たりにして
「 何たる“差”か‥‥ 」 と愕然としたものだ。私がピアノ・デュオにしろ伴奏にしろ室内楽にしろ、自分で楽譜を切り貼り作成 ( 場合によっては手書き ) するようになったのは、このコンサートがきっかけだった。そしてピュイグ=ロジェ先生の演奏が感動的かつ圧倒的だった事は云うまでもない。




演奏者の使用楽譜を見れば、その演奏者の意識レヴェルが判る。版

( エディション ) だけではない、楽譜そのものをどう作成してどう綴じているかでその演奏者の音楽に対する姿勢が出てしまう。ピュイグ=ロジェ先生の姿勢こそはまさに衝撃的。ピアノ弾きでござい、と活動していた自分が情けなくなったものだ。




最後に‥‥ピアノ・ソロコンサートでわざわざ 「 譜めくり担当 」 を置いて楽譜を見ながら演奏するピアニストが居るが、後で関係者に訊いてみると、

譜めくり担当者はそのピアニストの門下生で、ステージ慣れさせるための措置だという。暗譜で弾ける筈なのに 「 変だなあ 」 と思ったら、その辺りの裏事情を考慮すべきだろう。事情確認はしていないが、1985年の第11回ショパン国際コンクールの入賞者ジャン・マルク・ルイサダ氏が数年前、来日公演 ( 於・保谷こもれびホール ) で譜めくり担当つきで楽譜を見ながらショパン・プログラムを弾いていた。ショパン国際コンクールの上位入賞者であるルイサダ氏が、ショパン作品を暗譜していない筈がない。そのルイサダ氏がわざわざ楽譜を見ながらショパンを弾く‥‥ルイサダ氏の粋な計らいが判ろうというものではないか。






「空気を読めない」監督列伝

$
0
0


レジェンド.jpg


サッカー界のレジェンド、キング・カズこと三浦知良選手。昨年は不当なまでに出場機会が与えられなかった。




昨年サッカー界で私が感じた 「 空気を読めずに自分の首を絞めた監督 」 の例が2例あった。まず日本のJリーグ ( J2 ) の例から。




キング・カズこと元日本代表FW三浦知良 ( みうら かずよし ) 選手について、所属クラブのJ2横浜FCから2015年シーズンの契約更新が今年1月早々に発表された。




昨季は10月に自らが持つ最年長出場記録を47歳7カ月23日に更新したカズだったが、途中出場2試合、プレー時間は計4分。今年2月26日に48歳の誕生日を迎える“年男”だが、その気迫と意欲はまだまだ衰えを知らない。




カズは日本のサッカー界を20年以上“第一線の現役”として牽引して来たレジェンドとして未だにファンが絶えない。所属クラブの横浜FCの社長もカズの熱烈ファンであり、「 カズが自ら引退するまでやらせたい 」 という意向であるという。勝利のみにこだわれば超・大ヴェテランのカズを使いまくる事は出来ない。しかし、短時間ならばまだまだテクニックは健在で、スーパーサブ等のような起用の仕方によってはまだまだ充分戦力になる。何よりも観客動員でカズが果たす役割りは計り知れず、チームにカズが居るのと居ないのでは明らかにファンへの求心力が違って来る。カズとはそういう存在なのだ。



しかし、昨季チームを率いた山口素弘監督は、そのあたりの空気を読めなかった。レジェンドのカズでも特別扱いはしない…とでも言いたげな選手起用で、勝敗のみにこだわり続けた。それが昨季のカズのたった2試合、たった計4分間の試合出場という結果に繋がった。




たしかに勝敗は重要だ。野球でもサッカーでもバレーボールでも、チームはまず勝利~優勝を目指して戦うのがあるべき姿である。山口監督は、その本来の目的に真っ当に突き進んだ訳だ。この事自体は素晴らしいし、チームの監督として当然の姿勢だ。




だが、山口監督はチームの社長の意向を無視してカズを厄介者扱いし、ほとんどシーズンで起用しなかった…というか戦力として扱わなかった。チームの勝敗が決定した試合ですらカズを出場させようとせず、カズの勇姿を楽しみにしていた多くのファン達は落胆し、試合を観戦していた社長がとうとう激怒するに至り、ここで山口監督の命運 ( 契約満了=契約更新セズ ) が決まってしまった。




仮にJ2からJ1昇格を果たしていたとしても、やはり山口監督は同様の処遇 ( 監督として契約更新せず ) になっただろう。社長やファンにとってはもちろん勝利も大事だが、カズが現役選手としてピッチに立ってプレーしている事がポイントなのだ。

仮にJ2の下位に低迷したとしても、何とかカズをピッチに立たせてプレーさせようとしていたならば、2015年シーズンも横浜FC監督は山口素弘のままだったはずなのである。




空気が読めなかった監督‥‥もう1例は昨年ACミラン監督をシーズン途中で解任されたセードルフだ。




空気読めない監督/セードルフ.jpg



セードルフは、ツェスカ・モスクワから鳴り物入りで加入した日本のエース本田圭祐選手と、ほぼ同じタイミングでACミラン監督に就任した。本田選手はACミラン会長のたっての希望でロシアリーグから引き抜かれ、背番号10まで用意されて入団した選手である。しかしセードルフは本田選手を積極的に起用しなかったばかりか、最初から本来のポジションであるトップ下で起用せず、頑なに右FWのポジションに置き続けた。新チームに加入した選手をチームに馴染ませるためには、その選手の本来のポジションでプレーさせなければならないのは基本中の基本だ。本来と違うポジションで新天地でプレーさせて活躍出来るほどプロの世界は甘くはない。なるほど、セードルフ監督は本田選手を最初から戦力扱いしていないんだな‥と判る起用法だった。




野球に例えれば、ダルビッシュ投手を鳴り物入りで入団させて 「 チーム事情だし、彼にはこのポジションの可能性もある 」 とか屁理屈を並べながらダルビッシュ投手にセカンドを守らせる ( 内野手をやらせる ) ようなものだ。そして思うような結果が出せなければ 「 結果が出せないから 」 という名目でベンチ要員にする‥‥セードルフ監督が本田圭祐選手に対してやった事は、そういう事なのだ。




事情通によれば、ACミラン会長はトップ下でチームを牽引する本来の本田選手のプレーがいつまでたっても見られず、「 結果が出ない 」 という名目をつけて本田選手を出したり出さなかったりしているセードルフ監督に苛々をつのらせていたという。そしてセードルフ解任が決定的になったのは、同じミラノ市内のチーム同士が激突する 「 ミラノダービー 」 。相手はバリバリのレギュラーDFで活躍する長友祐都選手がいるインテル・ミラノだった。ここで背番号10を背負った司令塔の本田選手が出場すれば、いやが上にも盛り上がる。このダービーマッチに際して、ACミランには日系企業のスポンサードの話が打診されていたらしい。本田 vs 長友‥‥これ以上は考えられないカードであり、今後の注目度を考えてもチームに日系企業がスポンサードの名乗りを上げるのは当然の流れだった。




ところがセードルフは本田選手を途中出場すらさせずにベンチに置いたまま試合を終えた。別に本田選手が怪我をしていた訳ではなく、調子が悪かった訳でもない。試合前のインタビューでは、さも本田選手を試合に使うような雰囲気を漂わせていたセードルフだったが、試合が終れば 「 本田を出すタイミングが無かった 」 などと日焼けした北京原人みたいな顔でまくし立てていた。結果として、この試合でACミランにスポンサードを打診していた日系企業は、3社ともスポンサードを辞退してしまったらしい。 ( …まあ、そうだろうな )




イタリア・サッカーリーグの最高ステージであるセリエAで、スクデット ( 優勝 ) を争うために、チームの監督は全力を尽くす。しかし、チームのオーナーは優勝争いと同時にチームの経営も考えなくてはならない。だが、いくらセリエAでスクデッドを獲得しても、チーム自体が経営破綻したら元も子もない。チームのオーナーはスクデットを目指すのと同時に、スポンサーを確保する等の資金繰りを考えねばならないのだ。




チームの監督が 「 勝利 」 と 「 チームオーナーの意向 」 をバランスよく考えるのは難しい。しかし、それをやらなければ監督のクビが飛ぶ訳だし、まだまだ第一線で働けるヴェテラン選手の出場機会すら潰されてしまう事もある。「 レジェンド 」 と称される大ヴェテラン選手はサッカー界のカズだけに限らない。今年50歳になる中日ドラゴンズの山本昌投手、42歳にしてW杯で未だに表彰台を狙えるノルディックスキー ( ジャンプ ) の葛西紀明選手、第一線で頑張っているヴェテランアスリートは多いのだ。




アギーレ.jpg



日本代表監督のハビエル・アギーレが、かつてスペインで八百長事件に関与したという告発が現地裁判所に正式に受理された事を以て、代表監督から解任された。現段階ではまだ 「 有罪 」 かどうか判らないが、裁判や捜査がスタートすればアギーレはスペインに出頭しなければならず、日本代表の強化試合やW杯予選のスケジュールに重大な影響を受ける‥‥というのがアギーレ解任の理由である。
日本サッカー協会による後任監督候補の決定は遅々として進んでいないが、戦術・潔白性・キャリア・人間性に加えて、是非とも 「 空気が読める 」 人を代表監督に任命して頂きたいものだ。



門下生の初リサイタル

$
0
0


ホール.jpg



先日、門下生の初リサイタルに立ち会って来た。




昨年の春に大学

( 一般大学。本人の要望で大学名は伏せておく。 ) を卒業し、書店に勤務しながらプロを目指さしてピアノを続けている生徒だ。高校までは音楽系の高校 ( ピアノ専攻 ) だったが、音大には行かずに一般大学の文学部に進んだ。音大に進んでしまうとそこの担当教官に指導を受ける事になり、私のところにレッスンに来れなくなるのが嫌で一般大学に進んだらしい。高校卒業した年にデビューさせられればよかったのだが、リサイタルを敢行するだけのレヴェルにはまだまだ程遠いと判断して大学4年間を準備にあてさせた。
( 私は高校卒業した年にデビューして惨憺たる出来具合だった。自分の師匠たちの面目を潰し、お客様を失望させた男である。その苦い経験から門下生の初リサイタルには綿密の準備を課すようになった。その生徒のピアニスト人生すら左右しかねないからである。)




リサイタルの準備は大学1年の夏休みにスイスで開催された夏期ピアノ講習会に参加させて以来、綿密なスケジュールを設定して準備を積ませて来た。




ピアノ・リサイタルは思い付きで出来るほど簡単なものではない。単に90分とか120分とかのプログラムを組めばいいというものではなく、その演奏時間に耐えうる集中力と耐久力、演奏技術、選曲、ペース配分、ようするにピアノを演奏する総合力が高度に求められる。さらに、難易度の高い本格的な曲を演奏するためには、その準備段階となる曲を大量に通過しなくてはならない。




例をあげれば、バッハの平均律クラヴィーア曲集をコンサート・プログラムとして弾くためには、インヴェンション ( 全15曲 ) とシンフォニア ( 全15曲 )、フランス組曲全曲をこなした上で、クープランの組曲やスカルラッティのピアノソナタを20曲ほど経験してバロック様式感を身に付け、バッハのイタリア協奏曲を弾いた後からでないと

( …これでも最低限の準備過程なのだが ) 、とても平均律クラヴィーア曲集を人前で演奏は出来ない。最低でも最初に平均律の楽譜を見てすぐにサラサラと弾く事が出来るレヴェルに到達していなければ、まだその曲を弾くための 準備過程をこなし切れていない、という事になる。弾けるようになるまで悪戦苦闘しているようでは、まだまだその曲を弾く段階に到達していないのだ。




アマチュアの愛好家ならともかく、リサイタルでお客様に演奏を聴かせるには、音質や音色/切れ味/解釈など深い 「 踏み込み 」 を必要とする。そして完成度を高め、徹底的に熟練させる。そこまでやっても練習

( 準備段階 ) の30%しか出せないのが本番ステージなのだ。それを90分、120分と行うだけの体力・精神力・集中力……。門下生に初リサイタルをさせるには、数年かけて綿密に準備させなければならない。手を壊したら元も子もないし、緊張でヨロヨロの演奏をお客様にお聴かせする訳には行かないからだ。( リサイタルが有料か入場無料かは理由にならない。お客様がお金を消費するか貴重な時間を消費するか…の違いでしかないからだ。 )




私はよほど無謀な挑戦を申し出ない限り、愛好家や趣味の生徒に対しては本人が弾きたい曲をレッスンしているが、リサイタル ( に限らず人前でのコンサート活動を行う事全般 ) を目指しているプロ予備軍の門下生には、綿密なカリキュラムを組んで指導している。自分の実力を超えた曲に挑戦するのは愛好家の特権だが、プロ予備軍はそうは行かない。




今回初リサイタルを敢行した門下生は、



バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第30番


ショパン:バラード 第4番 Op.52


ドビュッシー:前奏曲集 第1巻



……というプログラム。120分近い内容だ。特に、ショパンのバラード第4番はショパン全作品中、舟歌Op.60/ピアノ・ソナタ第3番/幻想ポロネーズOp.61と並んでショパンの 「 4大難曲 」 の一角であり、ショパン作品のほぼ全部を経験していないと手に負える曲ではない。




それぞれの曲を具体的にどんな準備をさせたか…ではなく、これまで地道なカリキュラムをこなして来た先の到達点が、このたびの初リサイタルのプログラムになった…という事だ。




高校卒業までにモシュコフスキー、ヘンゼルト・サロン風エチュード全曲、ショパン・エチュード全27曲を経験させ、大学時代にポロネーズ全曲とマズルカ集のうち40数曲、スケルツォ全曲とバラード1~3番、ソナタ第2番を弾かせた。大学卒業した年にようやくノクターン集を弾かせたが、ショパンだけでもこれだけの 「 過程 」 を踏ませたわけだ。


ショパンだけ弾かせていた訳ではない。平均律をはじめとするバッハの主要作品やベートーヴェンの主要ソナタ、ラフマニノフやスクリャービン等のロシア物、ラヴェルやメシアン等の近現代作品などを弾かせている。偏ったカリキュラムでは意味がない。その時代ごとの様式も身に付けなければならないし、総合的なテクニックを作り上げるにはあらゆるタイプの曲を経験する事が不可欠だからだ。




初リサイタルに持って行くには、これだけの準備が必要となる。よく頑張った…と云いたいところだが、リサイタル1回で四苦八苦…では演奏活動は出来ない。我々はこういうコンサートを年間に数10回こなしているのだ。




ここまで演奏精度を上げなければいけない理由はただひとつ。客席で聴いているお客さんの耳をどれだけ満足させられるか、という使命があるからだ。だからプロ予備軍の門下生にはカリキュラム上の一切の甘えを許さない。

「 準備段階も何もかもすっ飛ばして好きな曲だけ弾きたいのなら、リサイタルが出来るようなプロを目指さずに愛好家になりなさい。よほど無謀な挑戦でもない限り、好きな曲だけ挑戦していられますよ。 」 と話している。愛好家ならピアノは本当に楽しいと思う。楽しさを追求するか、茨の道を進んでプロを目指さすのか、分岐点は高校時代までにあるような気がする。音大のピアノ科に進んたからプロになれるという保証なんかない。一般大学を出ても高卒でもプロになる人間はなるし、要は一日のほとんどをピアノにどれだけ割けるかどうかだ。片手間でプロレヴェルになれるほど甘い世界じゃない。




たった2小節のフレーズだけを数時間かけて何千回も練習するような細かいプラクティスを自分に課す事だってある。細かいアプローチ練習や地道な片手練習を嫌がり、最初から最後までつっかえながらダラ~っと通して弾くのは練習でも何でもない。「 趣味 」 という。趣味のピアノは自分のため。我々プロのピアノはお客様に聴かせるため。厳しいのは当たり前だろう。それで飯を食い、家族を養う以上は。








ピアノ・デュオ譚

$
0
0


チラシデザイン.jpg


ピアノ・デュオ公演のチラシデザイン。個人情報はぼかしてある。




いよいよ今年からスタートする一世(issei)ピアノデュオ・コンサートシリーズ。第一弾は国内門下の中堅、加藤さんを指名した。曲目が曲目だけに、生半可な実力では任せられない共演だが、幸い私の門下には私よりもよっぽど腕の立つ生徒がゴロゴロしている。加藤さんもその一人。デュオの相手を特に固定せず、プログラムに合わせてその都度指名する事にしたのは、現役のピアニストとして活動しているプロの門下生たちにアンサンブルの機会を平等に与えてあげたい‥‥と考えての事だ。


もちろん、私が共演者に指名する以上 「 相応の実力が備わっている事 」 は絶対条件。

「 時期尚早 」 と判断したら、たとえ指名後でも企画変更・指名やり直し‥‥も辞さないつもりだ。この点に関しては今後一切妥協しない事にした。




シリーズ第一弾のプログラムを 「 ショパン・ピアノ協奏曲第1番/第2番 」 としたのは理由がある。この曲

( 特に第1番 ) には、ここ10数年ロクな思い出がなく、共演相手の力量不足で私まで赤っ恥をかかされたり、「 楽譜を見たら、大して難しそうな箇所はない 」 という第一線のプロでも吐かない物凄いセリフをのたまいつつ公演3週間前になっても規定速度ですら演奏出来ない自己流アマチュアを相手にさせられたり ( 幸い、公演に至らなくて済んだが、果てしなく“時間と労力の無駄”だった。 ) 、そんなこんなで私自身の中ではショパン・ピアノ協奏曲第1番はピアノ・デュオ公演に関する限り 鬼門 だったのだ。




ひとつの傾向として、ショパン・ピアノ協奏曲第1番 Op.11の 「 ソロ・パート 」 を人前で弾きたがる人間は力量不足の場合が多い。ショパンの2つのピアノ協奏曲は演奏技術・解釈・表現などあらゆる点で非常に弾きにくく、音楽として作りにくい曲である。私はこの2曲とも独奏・オーケストラの指揮と両方経験しているが、並のピアニストの手に負えるような生半可な曲ではない事は痛感している。それだけに、ピアノ・デュオ公演の企画でショパンの協奏曲を口にした途端に、私がパート指定する前に自分からソロ・パートに名乗りを上げる 「 身のほど知らず 」 に限って、本番ではヨレヨレになる。そんな事ばかりが10数年続いていた訳だ。曲に対する印象まで悪くなりかねない。




最低限 「 まあ、いいだろう 」 と自分なりに何とか認められるピアノ・デュオ公演は、門下生

( 現・海外組 ) に共演させた1991年の公演までだった。それ以降はまさに “暗黒時代” で、なんとかしなければいかん‥と考えて共演相手をどうするか悩みに悩んだのが2011年の春以降だったろうか。




一時期、私自身何をトチ狂ったものか、ただの冷やかしで“補習”に来ていた学生

( 私の正式な門下生ではない ) を、門下のみんなを差し置いてデュオ共演者として育てようか、などとバカげた事を発想したりもしたが、結局長い付き合いで私のピアニズムをよく知る門下生から抜擢するのが 本筋 であり、私のピアノ・デュオ公演のシリーズは門下生をその都度抜擢するシステムに決定した。




今回指名した加藤さんは、すでに演奏活動を展開しているプロであるが、ショパンのピアノ協奏曲をたまたまレッスン受講曲に持って来ていて、私に 「 私がオーケストラパートを弾くからデュオ公演でソロを弾いてみないか 」 と指名された。本人は喜ぶどころか蒼くなって固まっていたが、この曲の難しさを知っているプロなら師弟共演に指名されて蒼くなるのが当たり前の感覚なのだ。その反応を見て、あらためて私の指名が間違っていなかった事を確認した。




私が誰かを共演相手としてピアノ・デュオ公演を行う時、

私の共演相手を一世(issei)のピアノの“夾雑物”としか見られない人間は私のファンでも何でもないが、「 いくらなんでも、あの低レヴェルは如何なものか 」 と思われたら、私に指名責任が生じる。一世(issei)はヒトを見る目がない‥‥と思われても反論は出来ないのだ。




10年ほど前だったか、ショパンのピアノ協奏曲をデュオ公演で行った時に、共演相手がアマチュアのサイトでボロクソに叩かれた事がある。私のファンを“自称”して開設されていた

(当時)不可解なファンサイトで、共演相手の子分連中がその件で掲示板にグダグダ反論していた事は知っていたが、私はどちらの味方もしなかった。その子分連中が何をどう反論しようがアマチュアの愛好家が何を論評しようが どっちもどっち だったから。しかし、槍玉に上がっていた人間にそのデュオ公演でショパン・ピアノ協奏曲第1番のソロ・パートを弾かせたのはこの私なのである。指名責任という事もあるが、迷惑千万な話だった。




こういう経験を何度もさせられて 「 ショパンのピアノ協奏曲に関しては、いつかリベンジしないと自分の沽券にかかわる 」 と思うようになった。第1番・第2番のオーケストラパートのオファーはここ数年受けているが、ソロ・パートならともかくオーケストラ・パートなぞ馬鹿馬鹿しくて弾く気にならないらしく、オーケストラ・パートの需要は多い。
オーケストラを実際に振った経験をもつ私はソロパートの演奏に如何様にでも合わせる事が出来るが、ピアノ・デュオでピアノ協奏曲を演奏しようと思うなら、ソロ・パートもオーケストラ・パートも両方経験しないといけない。

アダム・ハラシェヴィッチ先生アシュケナージアルゲリッチも、マスタークラスで生徒のソロ・パートに対して素晴らしいオーケストラ・パートを演奏される。下手な管弦楽団など足元にも及ばないほどだ。あの見事なピアノ・ソロは、オーケストラを知り尽くしたアンサンブル感覚に裏打ちされたものなのだろう。オーケストラ・パートを軽く考える人間にソロ・パートを弾く力量も資格もない。




モーツァルトであろうがベートーヴェンであろうが、ピアノ協奏曲というジャンルは形式こそソナタだが実際的にピアノ・ソナタをはるかに凌駕する実力を要求されている。ショパンやリストが活躍していた19世紀前半のパリにはショパンの先輩格

カルクブレンナーをはじめ、リストの好敵手タールベルグ、オクターヴ奏法の達人ドレイショック、「 3本の手を持つピアニスト 」 と云われたヘンセルト、演奏の限界を超えた曲を世に出し続けた 「 謎のピアニスト 」 アルカン、歴史に名を残したピアニスト達がひしめき合っていた時代だったが、いずれも自前のピアノ協奏曲を作曲している。どの協奏曲もその作曲者の全ピアノ作品の頂点ともいうべき難易度である。




早熟型天才のショパンの場合、20歳になるかならぬかで2曲のピアノ協奏曲を作ったが、いずれもショパン自身が世に出るための自己レパートリーとして作られたもので、ピアノ・ソナタ第1番やロンドOp.1、いくつかのオーケストラ付きピアノ曲など周到な準備をしてまず第2番協奏曲Op.21が作曲され、次いで第1番協奏曲Op.11が生み出された。
この2曲の難渋なピアノ協奏曲にさらに熟達する目的を持って、練習曲集Op.10&Op.25が作られたと推定されているが、ショパンの音楽語法はこの2曲のピアノ協奏曲を“完成型”とし、以降の作品はその語法に従って生涯作曲をしたと考えられる。おそらく当時のピアニストの暗黙の作法として 「 ピアノ協奏曲はそのピアニストの最高傑作の自作曲でなければならない 」 という事を考慮したのではなかったか。




…要するに、ショパンに限らずどの作曲家のピアノ協奏曲でも、ピアノ・デュオで公演するには半端な準備では駄目なのである。企画の段階でおおよその見当がつき、さらにじっくり時間をかけて準備する事が必要だ。そして何よりも

演奏者がその曲を人前で演奏する水準に到達していて、尚且つ一世(issei)のピアニズムをどれだけ理解してくれているか…という点が重要になる。ここ十数年さんざん恥をかかされて来ただけに、胸中“期する”ものが私にはあるのだ。





こうした企画は関東以外では案外、西で別展開して行くような気がする。西エリアで展開するピアノ・デュオ企画が実現したら面白いだろう。もちろんピアノ・デュオ企画に関するスポンサーが登場すれば…の話だが。こうした企画も含めて、日本中でどこのエリアが名乗りを上げるのか興味が尽きない。私は必要とされる場所に呼ばれて行く、それだけの話だ。それに関して他所から文句を云われる筋合いは無い。






6月25日(木)/ピアノ・デュオ公演のお知らせ

$
0
0


デュオ公演チラシ.jpg

6月25日デュオ公演チラシ正式版(裏).jpg



一世(issei)ピアノ・デュオ コンサートシリーズ第1弾は、私の国内門下中堅の加藤真樹子さんを指名して、ショパン・ピアノ協奏曲第1番&第2番を演奏します。


(このコンサートシリーズでは、これまで私が長きに亘って指導して来た門下生の中から、プロ活動をしている生徒を次々に起用して行うものです。ちなみに来年以降もプログラム・共演者が決まっております)




◆6月25日(木)pm 7:00 開演。(pm 6:30開場)


◆於:日比谷スタインウェイサロン東京松尾ホール


◆前売 4,000円

(当日4,500円/小・中学生は3,000円/未就学児童不可)




チケットお申込みは、私宛に直接メール頂くか、アート・ヴァリエーション・チケットサービス FAX: 03(6326)7221 に住所氏名電話番号・チケット枚数を明記してFAXして下さい。
松尾ホールの収容人数(キャパ)は88席ですので、チケットは無くなり次第販売終了となります。御了承下さい。





『恥を知る』という事

$
0
0

アメンバー限定公開記事です。

PR: 正社員転職ならマイナビ転職

$
0
0
転職サイト最大級の新着求人数!様々な求人情報の中から、希望の条件で今すぐ検索

6月デュオ公演の残席について

$
0
0


デュオ公演チラシ.jpg



6月25日のデュオ公演の残券がいよいよ20枚となりました。無くなり次第終了となります。




お申込みの際は、住所・氏名・電話番号・チケット枚数(生年月日は不要です)を明記して頂き、私の自宅ではなく

下記宛にFAXにてお願い致します。


音楽企画アート・ヴァリエーション/ FAX 03(6326)7221




※ お申し込み受付け順は、FAXの到着順となるそうです。ご了承下さい。




バッハ潭

$
0
0

アメンバー限定公開記事です。

Viewing all 367 articles
Browse latest View live